まえがき
分子医学への招待 中西真人
第1章 自己免疫疾患
理解されない苦しみ ある患者の闘い M. コニコヴァ
データで見る自己免疫疾患 M. ベンダー
なぜ自分に牙を剥くのか 免疫が裏切るメカニズム S. サザーランド
女性に多い理由 腸内細菌,ホルモン,X染色体が影響 M. W. モイヤー
反乱を抑える新たな手立て M. ブロードフット
第2章 遺伝情報と医療
希少疾患に光明 アンチセンス核酸医薬 L. デンワース
遺伝性プリオン病 発症前治療への挑戦 S. M. バラブ/E. V. ミニケル
聴こえてきた遺伝子治療の足音 耳の難病に挑む D. F. マロン
ヒトゲノム完全解読 Scientific American編集部
第3章 次世代の医薬品
ついに始まったmRNA医薬の時代 D. ワイスマン
生物から新薬候補続々 コロナ,がん,マラリア S. ストーン
再生能力を引き出す薬 K. ストレンジ/V. イン
幻覚剤をPTSD治療に J. M. ミッチェル
薬の効き目を左右する 細胞内時計 V. グリーンウッド
第4章 感染症最前線
変異株を追跡 暴かれたオミクロン株の正体 M. スカデラリ
実験室から現場へ 検査を革新したPCR技術 R. カムシ
多様な変異ウイルスに効く抗体 出村政彬
タンパク質工学の新潮流 ワクチンや抗体医薬を自由に設計する R. ジェイコブセン
第5章 微生物との共生
あなたの中にいる380兆個のウイルス D. プライド
ウイルスの“化石”ががんを抑える 古田 彩 協力:伊東潤平/佐藤 佳
ウイルスをシャットアウトする ゲノム改造細菌 R. ジェイコブセン
まえがき
分子医学への招待 中西真人
新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)との戦いは,もうすぐ4年目に突入する。感染力が強い変異ウイルスが流行しているため油断はできないものの,一時は中止や延期,オンライン開催が相次いだ国内外の学会も,ようやく通常の開催ができるようになってきた。「やっぱり直接会って意見交換をするのは楽しいですね」という声を友人たちから聞くと,久しぶりに出かけてみようかという気になる。研究者間の交流だけでなく,大学での対面授業や実習,研究活動の制限を含めると,SARS-CoV-2は科学の世界に大きな影響を与えたのは間違いない。
一方で,この3年間は,遺伝子治療や核酸医薬など分子レベルでの治療の実用化が本格的に始まった時期としても後世に記憶されるだろう。mRNA医薬品の実用化が一気に進んでSARS-CoV-2に対する大きな武器になったのは広く知られているが,同時期に複数の遺伝子治療製品が海外や国内で承認されたことも見逃せない。このように,分子医学(Molecular Medicine)とも言うべき新しい世界は確実に始まっている。そこで今回の日経サイエンス別冊256『生命科学の最前線 分子医学で病気を制する』では,この領域の最新状況を紹介することにした。
分子医学は,狭い意味では分子生物学(Molecular Biology)の成果を応用した医学と定義されるが,生化学や細胞生物学などもっと幅広い分野とのつながりも深い。実際,名著「Molecular Cloning」の出版により分子生物学的手法が1980年代に急速に普及したことで,それまでの学問領域の境界は曖昧になっている。さらに,かつては存在した「生物学ではヒトを対象として扱わない」という不文律もいつの間にかなくなって,今は「生命科学」として医学を基礎から支える時代になってきたと言えよう。
第1章「自己免疫疾患」では,そんな生命科学の最前線の1つである免疫学の話題を取り上げる。私事になるが,筆者が理学部の4年生だった1970年代末に「大学院では最先端の免疫学を専攻したい」と話したら,周囲から大いに変人扱いされた。今では笑い話であるが,サイトカインやそのレセプター,T細胞受容体など実体がまだ分子生物学的手法で明らかになっていない時代の免疫学の評価というのは,その程度のものだったのだ。現在では,免疫現象の背後にある多様な分子の実体が次々と明らかになり,遺伝子ノックアウトマウスなど個体レベルでの解析手法も利用できるようになって,免疫学の研究は飛躍的に進歩した。ヒトの自己免疫疾患は,環境との相互作用も関わる複雑な背景を持つが,分子レベルから疫学的解析まで幅広い分野の知見をもとに,原因の解明と治療への取り組みが進んでいる。
分子医学と聞いて真っ先に思い浮かぶのは遺伝子治療(Gene Therapy)だろう。今からちょうど50年前の1972年に,カルフォルニア大学サンディエゴ校のフリードマン博士(Theodore Friedmann)らによって提唱された遺伝子治療の概念は,「治療用の遺伝子を生体に導入して発現させ,遺伝性代謝疾患で不足しているタンパク質を補充する」というものであった。もちろん,この正攻法の遺伝子治療の考え方は今でも主流であるが,アンチセンス核酸医薬やゲノム編集などの新しい手法も生まれた現在では,「遺伝情報を操作することによる疾患の治療」という柔軟な概念に変化しつつある。この間,遺伝子治療の開発が順風満帆であったわけではない。特に,2000年代初頭に実施された臨床試験で副作用による死亡例が相次いだことは大きな逆風となり,それまでの遺伝子治療のブームは去ったかに思われた。しかし,最初の臨床試験から30年余を経て,多くの研究者が辛抱強く続けた努力の成果がようやく実りつつある。第2章「遺伝情報と医療」では,このような最新の遺伝子治療の状況を紹介する。
分子医学の進展は,医薬品の開発にも大きな変革をもたらした。長い間,医薬品の実態はさまざまな低分子化合物であり,抗生物質のエリスロマイシンのようにやや大きな分子量と複雑な構造を持つため合成が難しいものを除いて,多くの場合は化学合成で製造されてきた。そして,1990年代には,多数の化合物誘導体からなるケミカルライブラリーと,標的タンパク質や細胞に対する活性を持つ化合物を高速で探すハイスループットスクリーニング(High-throughput screening)という方法論が主流になった。しかし,現在では,医薬品の概念はかなり変化し,核酸やペプチドなどの中分子化合物から,抗体・遺伝子のような高分子化合物,さらには細胞まで,さまざまなモダリティ(Modality,手段や方法のこと)が医薬品候補として検討されている。第3章「次世代の医薬品」では,変貌しつつある医薬品開発の最新の動向とともに,医薬品の使用法に分子医学の成果を応用する新しい考え方についても紹介している。
診断と治療の両面で,分子医学が医療現場と最も密接に結びついているのが第4章「感染症最前線」で紹介する感染症の分野だろう。原因不明の感染症が発生した場合,これまでであればその原因をつきとめるだけでも少なくとも数カ月が必要だった。SARS-CoV-2の場合は,研究者が次世代シークエンスという方法で肺炎患者由来の試料に含まれる核酸の配列を大規模に決定し,その中から新規コロナウイルスの情報を見つけ出して,WEB上に公開した。この一連の過程は非常に迅速に行われ,2019年11月に武漢で患者が発見された後,2020年1月14日には国際的なデータベースGenBankで全塩基配列が公開されている。
SARS-CoV-2の診断には,この遺伝情報をもとにPCR法という分子生物学の技術が応用されているし,抗原検査キットは抗コロナウイルス・モノクローナル抗体という生命科学の成果を使って開発された。また,これらの診断技術はSARS-CoV-2に限ったものではなく,結核やインフルエンザなど他の感染症でも広く応用されている。予防の面では,どんなワクチンであっても実用化には少なくとも5年はかかるというこれまでの常識を覆し,公開された遺伝情報を使ったmRNAワクチンがたった10カ月で実用化できたことは画期的だった。その他にも,SARS-CoV-2の感染能を抑える抗体カクテル医薬品や,各種の阻害剤など生命科学の成果を応用した例はたくさん存在する。この一連の過程で得られた経験は,今後の感染症との戦いにも必ず活かされることだろう。
分子生物学の技術はまた,ヒト個体を取り巻く環境中の膨大な数の細菌やウイルスについての情報を明らかにしてきた。微生物は目に見えないため,炎症などを引き起こさない限り,普段はその存在に気づくことはない。しかし,次世代シークエンスにより得られた膨大な遺伝情報から,人間は多種類の微生物と共存して生きているだけでなく,これらの微生物が人間の生命活動に大きな影響を持っていることがわかってきた。さらに,これらの微生物の相互関係を利用して,抗生物質や抗菌剤に頼らずに病原細菌を殺すファージ療法などの新しい医療の可能性も示されている。また,微生物との共存の過程でヒトのゲノム情報に取り込まれたウイルスの痕跡が,ただ単に「化石」として残っているだけではなく,生命現象に影響を持っていることが明らかになってきた。
一方,細菌自体をモデル生物として,化学合成したDNAを使って遺伝情報を人工的に作り替えた「人工生命」の研究も進められている。再生医療など華やかなスポットライトを浴びる分野に比べて,細菌学というと地味で古くさい学問のように思っている研究者も多いだろう。実際,日本の大学の医学部に必ず設置されている細菌学講座は,ウイルス学や免疫学の専門家が担当していることが多い。しかし,細菌学は今,「合成生物学」という新しい切り口で,生命科学の最前線で多くの成果を生み出している。第5章「微生物との共生」では,このような新しい細菌学・ウイルス学の世界を紹介したい。
最後に,分子医学を取り巻く環境についても注目したい。本書を読んでいただければわかるように,最新の研究を支えているのは,大学や国立研究所に所属する研究者だけではなく,多くのアカデミア発ベンチャーである。ファイザー製のmRNAワクチンを開発したのは2008年創業のドイツのベンチャー企業ビオンテック(BioNTech)だし,もう一社のモデルナ(Moderna)も2010年創業の米国のベンチャー企業だ。この2社に限らず,本書には数多くのバイオベンチャーが登場する。その多くはまだ設立から10年以内だと思われるが,この中からアムジェン(Amgen,創業1980年)のような世界の製薬業界で時価総額が10位以内に入るような巨大バイオテクノロジー企業が生まれるかもしれない。
振り返って日本を見ると,バイオ医薬品などを含む先端医療領域では完全に輸入超過の状態が続いている。公的資金の削減によってアカデミアの研究環境が劣化している今,研究開発に専念できるベンチャー企業の方が,最先端の基礎科学やその実用化に貢献できるポテンシャルが高いと感じるのは,ベンチャーに身を置く者の我田引水だろうか。ベンチャーの設立を奨励するだけでなく,優秀な経営人材の供給を含めて,その育成を後押しするというマインドを社会が共有する時代が訪れることを願っている。
2022年12月
中西真人(なかにし・まひと)
ときわバイオ株式会社取締役(技術担当),産業技術総合研究所名誉リサーチャー,理学博士。1983年大阪大学大学院理学研究科を修了。大阪大学細胞工学センター助手,大阪大学微生物病研究所助教授を経て,2001年に産業技術総合研究所へ。この間,1984年から88年まで日本学術振興会海外派遣特別研究員(テキサス大学),1993年から96年まで新技術事業団さきがけ研究21研究員を兼務。2020年3月まで産業技術総合研究所主任研究員(ヒト細胞医工学研究ラボ長)。専門は分子生物学・細胞工学。RNAを使って細胞質で持続的に遺伝子発現を可能にする世界で唯一の技術を開発し,これを応用したiPS細胞作製技術の特許が日米欧で登録された。2014年12月,ベンチャー企業「ときわバイオ株式会社」を設立。日本発の技術を使った安全な遺伝子治療や再生医療の実現を目指している。