
「ゲノム医療」や「ゲノム編集」といった言葉をニュースなどで時々耳にする時代になった。研究者の世界でも「ゲノム○○」という単語はごく当たり前のように使われているが,分子生物学を専攻している大学院生に「ゲノムって何のことだか知ってるよね?」と突っ込むと,意外に返答に詰まったりする。ゲノム(genome)というのは,遺伝子(gene)に「全体・すべて」を意味する「-ome」というギリシャ語の接尾辞をつけた合成語で,その生物の持つ遺伝子(遺伝情報)すべてという意味である。この言葉は1920年にドイツの研究者が作ったという古い造語で,もともとはドイツ語なのだそうだ。その後,1995年に,細胞で発現している全タンパク質という意味で「プロテオーム(Proteome)」という言葉が使われたのをきっかけに,「〜オーム」や「〜オミックス(-omics)」(〜オームを研究する学問領域)という言葉が続々と生まれた。その一つ,「マイクロバイオーム(Microbiome)」という言葉が,最近,注目を集めている。
「微生物叢」や「細菌叢」とも訳されているマイクロバイオームとは,特に,ヒトの消化管・口腔・鼻腔・皮膚などに存在する微生物全体のことを指す言葉である。これまでのヒトに関わる医学・生物学研究の多くはゲノム情報や細胞を中心としたもので,ヒトと微生物の関係には目が行き届いていない側面が否めなかった。しかし,ヒトは単独で生きているわけではなく,体内に存在するマイクロバイオームの影響が非常に大きいということが広く認識されるようになってきた。
一方,微生物の研究も新しい技術が取り入れられたことによって大きく変化してきた。単細胞生物である細菌は,1個の細胞で独立した生命現象を営んでいるというのが,19世紀以来の古典的な考え方である。しかし,最近になって,実際の自然界や動物の消化管では,多種類の細菌がまるでヒトの社会のように互いに影響し合いながら暮らしていることが明らかになってきた。また,病原体の研究も,19世紀の細菌学者ロベルト・コッホの時代から大きく変化してきた。その本質は現代でも変わっているわけではないが,微生物を検出する新しい技術の開発は,微生物の世界を探り,新興感染症と闘うための大きなツールとなっている。そこで,今回の別冊221「微生物の驚異」では,動物や植物とは異なる微生物の独自の世界とその研究の現状をご紹介する。
第1章では,「バクテリアの社会」と題して,相互に影響し合って暮らす細菌の姿を紹介する。この別冊を編むきっかけとなった「マイクロバイオーム 究極のソーシャルネット」では,マイクロバイオーム研究の概要が描かれている。最近注目を集めていることもあり,マイクロバイオームに関する書籍はたくさん出版されているが,この記事はその入門編としてよくまとめられている。
「自然界を渡り歩く細菌のDNA」では,親から子へ遺伝情報が受け継がれるという遺伝学の基本原理では説明できない遺伝情報のやりとり「水平伝播」の発見のきっかけとその後の展開が紹介されている。大腸菌同士が遺伝情報を交換する接合という現象は1940年代に明らかになっていたが,遺伝情報のやりとりが自然界でも起きていることがわかったのは比較的最近のことだ。動物や植物のDNAも微生物に取り込まれることは,バイオテクノロジーの安全性の点で大きな波紋を広げた。
多細胞生物は,ホルモンなどの液性因子を使って細胞に情報を伝え,それを受け取った細胞の中では,さらにタンパク質のリン酸化などの化学変化によって遺伝子発現を制御している。「会話するバクテリア」で描かれているように,細菌もまた,代謝産物を使って他の細菌や宿主と頻繁に情報交換している。宿主との会話は往々にして「一方的」ではあるが,感染症の治療の標的として注目されている。「バクテリア社会の弱点を突く」は,このような細菌間の情報伝達の邪魔をして,薬剤耐性の伝播を防ぐ取り組みが紹介されている。
個々の細菌は自然界では小さな存在であるが,多数が集まって社会を形成すると,あたかも中性ヨーロッパの城壁都市のようにバイオフィルムという構造を作って集団としての力を発揮する。「細菌コロニーの砦を攻略する」では,人間の社会生活にも大きな影響を及ぼすバイオフィルムとの戦いが描かれている。
続く第2章「共生と進化」では,宿主と微生物の間の相互作用や,それによる進化の様子を紹介している。「細菌が操る性転換」は,昆虫に広く分布しその生殖に大きな影響を与えているボルバキア菌についての詳しい解説だ。最近,ボルバキア菌に感染した雄の蚊を環境中に放してジカ熱やデング熱を撲滅するプロジェクトが注目されているが,その現状は第3章で紹介する。
「潰瘍の背後に潜むピロリ菌」と「ピロリ菌の意外な効用」は,約8年の時間をはさんで書かれた,ピロリ菌研究の第一人者,ブレイザー(Martin J. Blaser)による優れた総説だ。ピロリ菌は,胃潰瘍や胃がんを引き起こす悪玉としての性質が明らかになり,衛生環境の改善や抗生物質の使用によりその感染率が低下すると,胃がんの発生率も急速に減少した。ところがその後,詳しい調査により,胃がんと反比例するようにより悪性の食道がんの発生率が増加するという意外な現象が起きていることが明らかになった。2つの論文は,ピロリ菌の持つ光と影の側面を描いている。
ウイルスは生物なのか無生物なのかというのは古くからある命題だ。編者は分子生物学の手法を用いてウイルスベクターの研究をしているが,合成核酸から作った人工的なウイルスの遺伝情報が,動物細胞できちんと複製や転写の機能を持っているのを見ると生物なのか無生物なのか悩んでしまう。「ウイルスは生きているのか」では,最近発見された巨大ウイルスの話題や,ウイルスが宿主の進化に貢献してきた可能性を紹介している。
「脳を操る寄生生物トキソプラズマ」は,単細胞の真核生物である原虫の一種,トキソプラズマの話である。トキソプラズマが発見されたのは100年以上昔のことであるが,宿主である動物に異常な行動を引き起こすことが報告されたのは比較的最近だ。現在では,その背景となっている現象が分子レベルで次々と明らかになっており,ヒトの疾患との関係が大きな注目を集めている。
第3章「感染症と耐性菌」では,ヒトに病気を引き起こす病原微生物とその対策について,最新の情報を紹介する。「デング熱ストッパー」は,第2章で紹介したボルバキア菌を使ってデング熱を媒介するネッタイシマカを撲滅するプロジェクトの話だ。一見簡単そうに思えるボルバキア菌の応用だが,感染した蚊の実用化までには10年以上にわたる関係者の地道な研究があったという事実に頭が下がる。
日本ではあまり馴染みがないが,公衆衛生の基盤が整っていない熱帯地域では,寄生虫や細菌・ウイルスによる感染症が蔓延し,人々の生活を脅かしている。「10億人を苦しめる忘れられた熱帯病」は,忘れられた熱帯病(Neglected tropical diseases,NTD)の撲滅に力を注いできたホッツ(Peter J. Hotez)による優れた総説である。この分野では,多くの線虫感染症の特効薬であるイベルメクチンを発見・実用化してノーベル生理学・医学賞を受賞した日本の大村智博士の貢献も特筆されるべきものだ。
海洋汚染は,工場などからの排水による化学的汚染の問題がよく知られているが,最近になって陸上生物の感染症を引き起こす微生物が,海で生活する動物に深刻な被害をもたらしていることが報告されてきた。「海の生物を脅かす陸の病原体」は,その最新のレポートである。微生物による汚染は,いずれヒトの社会に新興感染症となって被害をもたらすと予想されているが,日本ではまだほとんど知られていないのではないだろうか。
さまざまな抗生物質に耐性を持つ多剤耐性菌は,かなり以前から問題となってきたが,最近ではますます状況が深刻になってきている。「耐性菌と闘う新たな抗生物質」では,ペニシリン系の強力な抗生物質メチシリンに耐性をもった黄色ブドウ球菌(MRSA)をはじめとする耐性菌の現状と,それを克服するための新しい薬剤の開発が紹介されている。より生物学的な解決法として,細菌に感染して殺す細菌ウイルス(バクテリオファージ)を武器とする古くて新しい取り組みが「ファージの力」だ。しかし,このような多くの努力に水を差すような人間の経済活動が「家畜工場から耐性菌」で紹介されている。実は,医療用として使われる抗生物質の3倍以上の量が畜産など産業用として使われている。しかし,さまざまな理由から,抗生物質の規制は困難を極めているという。科学では解決できない難しい問題である。
微生物は我々の健康や社会生活に多様な影響をもたらしているが,人類の活動が微生物の社会にさまざまな変化を与え,それが新たな社会問題として人間に跳ね返ってきているという現実も直視しなくてはならない。「微生物の驚異」が,これらの問題を考える一助となれば幸いである。
2017年8月
著者
中西真人(なかにし・まひと)
国立研究開発法人産業技術総合研究所・創薬基盤研究部門・ヒト細胞医工学研究ラボ長。理学博士。専門は分子生物学・細胞工学。RNAを使って細胞質で持続的に遺伝子発現を可能にする世界で唯一の技術を開発し,これを応用したiPS細胞作製技術の特許が日本と米国で登録された。2014年12月,ベンチャー企業「ときわバイオ株式会社」を設立,日本発の技術を使った安全な遺伝子治療や再生医療の実現を目指している。