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別冊218 はじめに

 別冊日経サイエンス218『脳科学のダイナミズム──睡眠 学習 空間認知 医薬』では,ここ数年の記事を中心に脳神経科学や認知科学,心理学の成果を取り上げる。

 眠りが心身の充足をもらたすことは誰もが経験している。睡眠不足が続くと免疫機能が低下するほか,インスリンが出にくくなって肥満を招きやすくなる。重要な記憶を固定するには睡眠が必要であることもわかってきた。「記憶・免疫・ホルモンを活性化 睡眠パワーに迫る」では最近の睡眠研究を通して,眠りの役割と謎を取り上げる。非24時間睡眠覚醒症候群は睡眠リズムがずれていくことで,社会生活への適応が困難になる深刻な病気だ。「体内時計が壊れると 非24時間睡眠覚醒症候群」は体験例を交えて深刻な睡眠障害への取り組みを紹介する。

 続く3編は子どもの脳と心の成長をテーマにした記事。ティーンエージャーは豊かな発想力を示す一方で,なぜ危険な行動を好む傾向が強いのか。その理由は,感情をつかさどる大脳辺縁系のネットワークが先に強化され,冷静な判断を促す前頭前皮質が遅れて発達することにある(「10代の脳の謎」)。赤ちゃんが言語能力を開花させるには,脳に柔軟性のある時期に十分な語りかけがなされることで,それぞれの言語に特有の音を認識し,その言語に対する神経系の接続を確立させる必要がある(「赤ちゃんの超言語力」)。脳は子ども時代から青年期にかけての可塑性の高い時期に,感覚刺激や社会的刺激に対して柔軟に変化し,その結果を残すことで様々な能力を獲得する。この臨界期の解明は,成人の脳の可塑性を取り戻す研究にもつながる(「集中学習の窓 臨界期のパワー」)。

 ゲームは脳によくない? いや脳活に役立つのでは? 議論が続くなか,シューティングゲームのような動きの速いゲームが認知能力の向上に役立つという実験データが注目されている。「ビデオゲームで認知力アップ」では複数の研究を通して,注意力や迅速な情報処理,課題に対する柔軟性など様々な認知機能とゲームの関連性について述べる。ゲームの利点を教育現場に活かそうという動きも出てきた(「ビデオゲームを教育に」)。

 2014年にノーベル生理学・医学賞を受賞したモーザー博士夫妻(オキーフ博士と共同受賞)は脳の測位システムの解明に長年取り組んできた。私たちが特定の場所に来たときに発火する「グリッド細胞」のほか,「頭方位細胞」「境界細胞」,移動の速さに反応する「スピード細胞」など,周囲の環境に反応しながら自分の居場所を把握する神経細胞が脳で働いている。「空間認識のカギ握るグリッド細胞」「脳内マトリックスの衝撃」ではこうした“脳のGPS”の研究を紹介する。

 後半では,おもに病気やその治療に関する記事を取り上げる。「脳刺激治療 炎症を治すバイオエレクトロニック医薬」「難治性うつ病に効果 脳回路を再起動」は,埋め込み型の電気刺激発生装置を使った最新治療の研究を解説。装置が発生する電気シグナルによって炎症を引き起こす免疫分子の働きを抑えたり,脳深部に埋め込んだ電極で神経回路を刺激し,重いうつ病を治療する研究が進んでいる。

 自閉症のメカニズムは未だ不明だが,長期的な効果が期待できる治療法が検討されている。認知行動療法とともに,その効果を高める薬物として,オキシトシンを経鼻投与する臨床試験が米国で始まっている(「動き出す自閉症治療」)。

 体内のリンパ系は老廃物を運ぶ仕組みとして知られているが,リンパ管のない脳はどうやって有害なゴミを運び出しているのだろうか。「脳から老廃物を排出 グリンパティック系」の著者らは,脳にも似たような導管システムがあることを発見した。グリンパティック系は睡眠中に最も活発に働いていることから,脳の健康と睡眠の重要性も見えてきた。さらに,アルツハイマー病やパーキンソン病など,有害なタンパク質が脳に蓄積する病気の治療にもつながると期待されている。

 セルフコントロールは自制心,意志力とも呼ばれる。他者とうまく付き合う上で欠かせないだけでなく,この力が枯渇すると,難しい課題に粘り強く取り組めなくなることがわかってきた(「セルフコントロールの心理学」)。

 脳はどのようにして複雑な機能や精神活動を生み出すのか? 数十億のニューロンが作るネットワークのどこを,どのような方法で研究すれば,脳の働きをありのままに捉えることができるだろうか。この課題に取り組むため,複雑性に関する様々な解析手法を取り入れて,脳のネットワーク構造を調べる研究が行われている(「シミュレーションで解く脳の複雑性」)。コンピューター上の仮想ニューロンネットワークで活動パターンをシミュレーションする方法や,株価変動の数学モデルを応用した研究などから,複雑系に共通するネットワーク構造が見つかり,脳内ネットワークを探る手がかりが得られている。

 本書は月刊誌「日経サイエンス」に掲載された記事で編纂した。記事中の登場人物や著者の肩書きは特にことわりがない限り初出当時のものとした。

2017年2月

日経サイエンス編集部