
別冊日経サイエンス177『先端医療をひらく』を送り出してから4年が過ぎた。一昔前であったら,4年という歳月は科学の歩みのほんの1ページであったろう。しかし,21世紀に入った現代では,時の流れは以前とは比較にならないほど速く,生命科学の基礎研究の成果がすぐに臨床の現場で試される実例も増えている。また,がんの免疫療法や新しいバイオ医薬品が次々と実用化される一方で,感染症の分野ではエボラウイルス病などの新たな難敵が出現している。このような状況を反映して,そろそろ『先端医療をひらく』以後の展開を紹介してほしいという読者からの要望が数多く寄せられてきた。その声に押される形で,今回,別冊日経サイエンス204『先端医療の挑戦』をお届けする。
Chapter 1「再生医療と遺伝子治療」では,「先端医療」という言葉から誰もが思い浮かべる「再生医療」や「遺伝子治療」といった実験的医療の最新の現状について紹介する。国内では,2012年の山中伸弥教授のノーベル賞受賞をきっかけに再生医療の実用化を加速する機運が一気に高まり,昨年は再生医療を推進するための新しい法律も施行された。ヒトiPS細胞は,この4年の間に基礎医学や新薬開発の技術として広く普及し,昨年,iPS細胞由来の網膜上皮細胞の移植が世界で初めて日本で行われたことも記憶に新しい。
一方の遺伝子治療も,初めての臨床試験から25年が経ち,2012年には稀少疾患の遺伝子治療薬グリベラ(Glybera)がEUで承認されて大きな話題となった。日本では華やかなiPS細胞の話題の陰に隠れがちだが,再生医療新法の適用範囲には遺伝子治療も含まれ,再生医療とともに早期の実用化が期待されている。世界的にはまだiPS細胞を使った再生医療に慎重な見方もあり,安全性と有効性が確認できる治療となるまでには遺伝子治療と同様にまだ長い時間が必要だろう。今回は,華やかな話題ばかりではなく,地道な取り組みにも焦点をあてて,最新の状況を紹介する。
次の章では,最近何かと話題が多い感染症を取り上げた(Chapter 2「感染症 新たなる闘い」)。よく知られているように,人類の平均寿命が大幅に延びた理由としては,公衆衛生の改善や抗生物質の発見によって感染症による死亡率が下がったことが大きく寄与している。しかし,人類の活動範囲がどんどんと広がるにつれて野生動物との接触の機会が増し,気候変動の影響もあって,未知の病原体に突然襲われる危険性はかつてないほど高まっている。さらに,エボラウイルス病のように死亡率の高い感染症の場合,社会への影響は計り知れない。
しかし,以前と違うのは,バイオテクノロジーの進歩によって迅速な診断や病原体の鑑別・侵入ルートの解明ができることだ。また,病原性の分子基盤を明らかにするためにも,先端技術は欠かせない。ただ,これらの情報と,実際に感染症と闘うためのワクチンや治療薬などの技術の間には大きなギャップが存在する。感染症研究は,ライフサイエンスの他の分野に比べて予算も人員も少なく,産業界の関心も低いなど厳しい状況に置かれているのも事実で,本書が問題提起のきっかけになればと思う。
現代の医療にとって永遠の課題ともいわれる「がん」はChapter 3「がん研究最前線」で取り上げた。がんの治療は,抗体医薬品や分子標的治療薬の投入によってこれまでの抗がん剤では達成できなかった切れ味の鋭い内科的治療法が実現するなど,過去4年間でもっとも大きな変貌を遂げた分野の一つである。しかし,このような成果も一朝一夕に生まれたわけではなく,抗PD-1抗体の実用化のように,基礎的な発見から20年以上にわたる努力が必要であった。つい最近まで,がんの免疫療法は効果が疑問視され,専門家の間でも否定的な意見が多かったというが,この冬の時代を乗り越えた関係者の努力には心を打たれる。また,樹状細胞の発見者で2011年のノーベル生理学・医学賞受賞発表の3日前に亡くなったラルフ・スタインマン博士と膵臓がんとの闘いのエピソードも,何度読んでも感動的だ。この他,診断法の進歩が必ずしもQuality of Lifeの向上につながらない前立腺がんの話は,科学の進歩の一面を示した話題として取り上げた。
製薬業界には「2010年問題」という言葉がある。1990年頃に開発された大型の医薬品の特許が切れる一方で,それに代わる収益源となる新薬の開発が進んでいない状況を表した言葉だ。そんな中で進められている次世代の医薬品開発の現状をChapter 4「医薬新時代」で紹介する。
昨年,米国で承認された新薬の半分以上はいわゆるバイオ医薬品だ。その中では抗体医薬品が多数を占めているが,核酸医薬品も急速に開発が進んでいる。前回の別冊ではDNA医薬品を取り上げたが,現在ではより効果が高いRNA医薬品の時代へと開発の焦点が移りつつある。バイオ医薬品開発は基礎研究から実用化までのスピードが非常に速い分野で,基礎となったRNA干渉現象が線虫で発見されたのが1998年,その功績によりファイアー(AndrewZ. Fire)とメロー(Craig C. Mello)がノーベル生理学・医学賞を受賞したのは2006年,その成果を実用化したRNA医薬品「Kynamro」は2013年に承認されている。医薬品開発では,これまでの低分子化合物を中心とした医薬品開発の限界に加えて,長期にわたる臨床試験により安全性と有効性を評価する必要があるため,20年先を見据えた開発戦略が求められる。リバース薬理学や基礎的な生物学から生まれる新薬など,これからの研究者にはこれまでの常識にとらわれない柔軟な発想が必要になりそうである。
最後のChapter 5「進むエイジング研究」では,急速に進む高齢化社会において誰もが避けては通れないエイジングの話題を取り上げた。古代より,人々は「不老長寿の薬」を求めて大きな努力を重ねてきたが,ラパマイシンは哺乳動物の最長寿命を延ばすことが確立した初めての物質だ。副作用があるためそのままでは人間には使えないのが残念だが,いつかはきっと長寿の薬ができるのでは,という期待を抱かせる。エイジングは,最先端の分子生物学にとってまだ歯が立たない分野の一つで,過去のさまざまな研究分野で生まれた成果を回顧しつつ,その「常識」からは想像がつかない結果につながる,とてもアクティブな研究分野だ。昨年は,若いマウスの血液中に存在する若返り因子GDF11の発見が話題となったが,この研究の基になったのは若いマウスと年老いたマウスの血管をつないで血液を循環させるというレトロな動物実験だ。5年後のおおよその状況が想像できる他の先端医療の分野と違って,数年先に何が起きるか想像がつかないエイジング研究は目が離せない分野だ。古代の王様だったら科学者に黄金をどのくらい積むのだろう,と想像するのもちょっと楽しい。
前回の別冊『先端医療をひらく』は,いろいろな「夢」が詰まった未来の宝箱のようで,今読み返してもなかなか興味深い。それに比べると,今回の別冊は,夢を現実にする過程における苦労や,突然襲ってくる病原体との闘いなど,シリアスな内容が多いが,これらの記事を通して先端医療への関心をより深めていただければ幸いである。
2015年2月
著者
中西真人(なかにし・まひと)
独立行政法人産業技術総合研究所 幹細胞工学研究センター副センター長,理学博士。1983年大阪大学大学院・理学研究科を修了。大阪大学細胞工学センター助手,大阪大学微生物病研究所助教授を経て,2001年より産業技術総合研究所に移り,2010年より現職。この間,1984年から88年まで日本学術振興会海外派遣特別研究員(テキサス大学ダラス健康科学センター),1993年から96年まで新技術事業団さきがけ研究21研究員を兼務。専門は分子生物学・細胞工学。RNAを使って細胞質で持続的に遺伝子発現を可能にする世界で唯一の技術を開発し,これを応用したiPS細胞作製技術の特許は最近,日本と米国で登録された。2014年12月,ベンチャー企業「ときわバイオ株式会社」を設立,日本発の技術を使った安全な遺伝子治療や再生医療の実現を目指している。