
万物に質量を与えるヒッグス粒子が2012年7月に発見され,素粒子物理学に与えたインパクトの大きさから「7月革命」と呼ばれるようになった。激動の時代を迎えた素粒子物理学の研究最前線を紹介する。
第1章「ヒッグス粒子の発見」ではヒッグス発見の意義を詳しく解説する。ヒッグス粒子の探索は30年以上にわたって歴代の世界の巨大加速器を用いて行われ,欧州合同原子核研究機構(CERN)の大型ハドロン衝突型加速器LHCによって発見が成し遂げられた。スイスとフランスの国境をまたぐ地下深部に建設されたLHCは山手線サイズの巨大なリング状加速器で,日本の高度な産業技術が数多く用いられている。実験には世界各国の1万人近い研究者や技術者が参加,日本は中心メンバー国になっている。 「最強加速器が起こした7月革命」(6ページ)では具体的にどのような実験によってヒッグス粒子が発見されたのかを紹介する。「ヒッグス発見の瞬間」(30ページ)ではCERNでの発表直前,国際共同実験グループ内での熱気に満ちたデータ解析の模様が,そのメンバーらによって臨場感豊かに語られている。データ解析では日本の研究グループも大きな存在感を示した。「ヒッグス粒子を追い求めて:浅井祥仁」(46ページ)では解析グループのリーダーである浅井祥仁東京大学教授にスポットライトを当てた。
歴史的に見れば,物理学者はまず宇宙誕生直後,万物には質量が存在しなかったことを見いだした。そこを出発点に,万物に質量を与えるにはどうすればよいかが考えられ,質量を与えるための複雑精緻なメカニズム,「ヒッグス機構」が提唱された。「質量とは何か」(20ページ)でヒッグス機構の本質に迫る。ヒッグス機構で中心的役割を果たすのがヒッグス場という一種の場で,その場の揺らぎを私たちはヒッグス粒子として認識している。ヒッグス粒子の発見によってヒッグス場さらにはヒッグス機構の存在が実証され,提唱者のアングレール(François Englert),ヒッグス(Peter Higgs)両博士が2013年にノーベル物理学賞を受賞した。ただ両氏がそれぞれ独立して提唱したヒッグス機構のおおもとは南部陽一郎博士が提唱した「対称性の自発的破れ」にある。「南部陽一郎が語る 対称性の破れとヒッグス」(50ページ)では南部氏自身がそうした歴史的経緯を述べている。
ヒッグス機構は,「標準モデル」または「標準理論」と呼ばれる素粒子物理学の理論的枠組みの重要な要素となっている。標準モデルは物質を構成する素粒子と力を担う素粒子にはそれぞれどのようなものがあり,いかなる振る舞いをするのかをまとめたものだ。粒子と反粒子の間の微妙な振る舞いの違い,「CP対称性の破れ」(CPの破れ)を説明する小林・益川理論も標準モデルの一部を構成する。標準モデルが確立したのが1970年代前半で,以来,標準モデルが存在を予言した素粒子が実験によって多数発見され,最後まで残っていたのがヒッグス粒子だった。
ヒッグス粒子が発見されたことで標準モデルは実証されたが,それで素粒子物理学の世界はすべてわかるようになったかというとまったく違う。未解決の問題は山積しており,物理学者は標準モデルに立脚してそれらの謎に立ち向かうことになる。「小林・益川両氏が語るヒッグス後」(54ページ)では小林・益川理論の提唱者である小林誠,益川敏英両氏が展望を語っている。現在,LHCはパワーアップのための改修が行われているが,2015年春には実験が再開される予定で,革命の第二幕,つまりさらなる未知粒子の発見への期待が高まっている。「ヒッグスだけじゃない LHCが変える素粒子物理学」(38ページ)でヒッグス発見後のLHC実験の注目点を紹介する。
第2章「見え始めた綻び」では標準モデルでは説明できない謎に迫る。ヒッグス粒子は発見されたが,様々な素粒子が,なぜ測定された質量の値を持つのか標準モデルでは説明できない。物質を構成する素粒子のセットが,なぜ3セット存在するのかも不明だ。暗黒エネルギーと暗黒物質の存在も標準モデルでは説明できない。そしてもう1つ,謎が多いのが「ミュー粒子」だ。
ミュー粒子は質量が大きいことを除くと電子とそっくりの素粒子。このミュー粒子を用いて陽子の半径を測定したところ,電子を用いて測定した場合よりも半径がかなり小さくなってしまった。「陽子のサイズが何かおかしい」(58ページ)でその発見の経緯が述べられている。標準モデルでは説明できない未知の要因が潜んでいる可能性が高そうだ。さらに「ミュー粒子に表れた矛盾」(66ページ)によると,ミュー粒子の磁気的特性(磁気モーメント)を精密測定した結果と理論値にズレがあることもわかってきた。いったいズレは何が原因で起きるのか? 日米欧はさらなる精密実験で,この謎を解き明かそうとしている。
「ニュートリノ」も謎に満ちた素粒子だ。物質を構成する粒子の1つでありながら,物質の中を幽霊のように素通りし,その質量はゼロとされていた。ところが1990年代末,質量を持つことがスーパーカミオカンデによる実験で明らかになった。ただ質量は極端に小さく,いまだその値は求まっていない。しかもその質量は標準モデルのヒッグス粒子だけでは説明がつかないようなのだ。
「ニュートリノで探る物質の起源」(76ページ)では加速器や原子炉,地下深くの実験施設などを用いて明らかになってきたニュートリノの素顔を紹介する。一方で新たな謎も浮かび上がった。ニュートリノを理解するための2つのキーワードは「CPの破れとマヨラナ」(84ページ)で,いずれの研究についても日本が世界をリードしている。
CPの破れは先述のように小林・益川理論で説明されるが,同理論はクォークにおけるCPの破れを扱っており,ニュートリノについてはCPの破れがあるかどうかが大きな注目点となっている。かつては実験による探索は無理だと考えられていたが,日本が主導するT2K実験(加速器実験)と海外の原子炉を用いた実験を組み合わせることで,探索が実現しつつある。T2K実験はこれまでニュートリノビームを用いた実験を行ってきたが,今年6月からは反ニュートリノビームを用いた実験を開始。T2K実験単独でのCPの破れの直接探索に向けて前進した。
第3章「ポスト標準モデル」では標準モデルを超えた新理論の探索に焦点を当てる。探索の手がかりはヒッグス粒子そのものにある。発見されたヒッグス粒子の質量の値は量子力学の理論から予想される値よりもはるかに小さい。これを「階層性問題」という。階層性問題は重力の強さと,他の力の強さとの乖離の問題でもあり,標準モデルの枠内で解決するのは非常に難しい。しかし,物質の粒子と力を担う粒子の間にある種の関係性,いわゆる「超対称性」の存在を仮定すれば,ヒッグスの質量について比較的無理のない解釈ができる。そして超対称性が事実であれば,超対称性粒子と総称される素粒子グループが存在することになり,LHC実験ではその探索にも力が注がれている。
ただ,「崖っぷちの超対称性理論」(94ページ)で述べられているように,いまだその兆候は得られていない。そのため超対称性は存在しないのではないかとの見方も一部に出ているが,「問われる究極理論への道筋」(104ページ)によれば,状況はそれほど悲観的ではなく,2015年春から再開されるLHC実験への期待が高まっている。
もっとも超対称性の存在を仮定しなくても,階層性問題などの難問を解決することはできる。1つはプレオン仮説だ。現在知られている素粒子は,より少数種類の基本粒子(プレオンと総称)からなるとする理論モデルで,「クォークの中の素粒子」(124ページ)で解説する。プレオン仮説によればヒッグス粒子も複合粒子である可能性がある。
階層性問題を解決するもう1つの方策は余剰次元だ。私たちはこの世界を3次元空間として認識しているが,万物を説明する究極理論の有力候補,超弦理論によれば,実際には9次元空間になる。この9次元から,私たちが認識できる3次元を差し引いた6次元は余剰次元と総称され,それらは非常に小さく丸めこまれているので認識されていないという理解だ。しかし,余剰次元のいくつかは,それよりも桁違いに大きい1mmくらいの距離まで広がっている可能性もあり,もしそうであれば階層性問題はそもそも存在しなくなる。「余剰次元を探る」(132ページ)で詳しく紹介する。
ただ超弦理論は余剰次元とともに超対称性の存在も大前提となっているので,状況はそれほど単純ではない。超弦理論自体も発展途上の理論モデルで,未解明の部分は多い。例えば近年,その数値シミュレーションによって宇宙の誕生を示唆するような現象が見つかった。「超弦理論が明かす宇宙の起源」(114ページ)で詳細を紹介する。宇宙の誕生は超弦理論が内包する未知のメカニズムによってもたらされた可能性がある。
LHC実験ではヒッグス粒子と超対称性粒子の探索が注目されているが,プレオンと余剰次元などについても同時並行で探索が進んでいる。「リサ・ランドールが語る展望」(142ページ)では,超対称性と余剰次元の理論研究で知られるハーバード大学のランドール教授(Lisa Randall)がその見通しを述べている。
この別冊は月刊誌「日経サイエンス」に掲載された記事を再録,編纂した。記事中の登場人物や著者の肩書きなどは特にことわりがない限り本誌初出時のものとしたが,訳者や監修者などについては最新のものに改めた。
2014年12月
日経サイエンス編集部