日経サイエンス 

別冊日経サイエンス188 感染症 新たな闘いに向けて

別冊188 プロローグ

中西真人(産業技術総合研究所)

 「成熟した細胞を多能性を持つ状態に初期化できる現象の発見」による山中伸弥・京都大学教授のノーベル賞受賞は,日本のライフサイエンスにとって久々の大きな話題となった。発表から1カ月余が過ぎたが,まだまだiPS細胞(人工多能性幹細胞)の話題は途切れることがない。「動物の組織細胞を4個の遺伝子で人工的に初期化してiPS細胞を作製する」という専門的な内容やその意義も,科学雑誌や新聞,テレビなどで繰り返し紹介されたので,興味を持った人も多いと思われる。日本人の科学技術への関心は決して低いわけではないが,日本が誇ってきたハイテク製造業の不振や,東日本大震災以降に広がった科学への不信などから,若い世代の「理系離れ」の傾向がますます強まることが懸念されている。そんな状況での山中教授の快挙は,科学技術への国民の関心を呼び起こす良い機会を与えてくれた。

 ライフサイエンスは医療や健康に直接貢献する可能性が高く,より身近に感じられる研究分野だ。iPS細胞のような最先端の研究には特に注目が集まりやすい。だが一方で,地味ではあるが国民生活全体を考えるとより優先度や緊急性の高い保健衛生政策の分野にも,ライフサイエンスは大きな変革をもたらしている。そのひとつが感染症対策の分野である。別冊日経サイエンス188『感染症 新たな闘いに向けて』では,この分野の進捗と将来展望を紹介する。

 

 別冊日経サイエンスでは,過去2回にわたって感染症を取り上げた。別冊143『世界を脅かす感染症とどう闘うか』(2003年)ではSARS(重症急性呼吸器症候群)ウイルスとプリオン,別冊163『感染症の脅威 パンデミックへの備えは万全か』(2008年)では新型インフルエンザウイルスなど新しいテーマも扱っているが,いずれの別冊でも中心的な話題として取り上げられているのは,エイズやマラリアなど長年にわたって人類を苦しめてきた感染症だ。これらの感染症との闘いは今なお続いているが,今回の別冊に掲載した記事を読むと,最近のライフサイエンス研究の進展によって,感染症対策に変化が生じていることがわかる。

 再生医療などの先端医療と違い,感染症対策は「科学」であると同時に「政策」の側面が強いため,ある意味で保守的な対応が求められる。多くの場合,対象は国民全体であり,「失敗」は許されないからだ。例えば,有効な治療

法だが副作用による死亡者が1%出るという場合,リスクを承知で高い効果を期待するような先端医療ならば許されるケースもあるかもしれない。しかし,非常に多くの人が対象となるワクチン接種では,たとえ効果が万全であっても高いリスクを許容できないのは当然である。そのため,臨床試験も慎重に時間をかけて行われる。

 しかし近年,このような保守的な分野にも最新の科学の成果が次々と取り入れられている。その中でも特に大きな影響を与えているのが免疫学の急速な進歩だ。2011年のノーベル賞は,「トール様受容体による自然免疫の活性化

機構」と「樹状細胞とその獲得免疫に対する役割の発見」に対して授与されたが,両者は共にワクチン開発に大きな影響を与えている。特に前者は,これまで経験則で開発されてきたワクチン添加剤に科学的な裏付けを与え,副作用

の低減とワクチンの効果の増強に大きく貢献している。この別冊の「パンデミック対策のカギ ワクチン増強剤」(88ページ)ではこれらの成果を紹介している。

 

 加速度的に進歩しているゲノム科学や遺伝子組み換え技術の成果を取り入れていることも,最近の感染症対策の特徴だ。特にゲノム科学は従来,感染症とはあまり関係がないと考えられてきた。たとえ関係があるとしても,個人のゲノムを調べて感染症との関連性を探るのは,遠い夢でしかなかった。しかし,2003年のヒトゲノムの完全解読から10年もたたないうちに,個人の全ゲノムの解析のコストは劇的に下がり,特定の病原体に感染しない(できない)と考えられる人のゲノムを調べてその原因を探る手法が現実のものとなった。その結果,そうした病原体が感染して病原性を発揮するメカニズムが明らかになり,新しい感染症対策の標的が見つかっている(「エイズを発症しない人々を追う」125ページ)。

 

 病原体のゲノムの迅速解析も同様で,これまではできなかった病原体の詳細な型の判別ができるようになって,病原体がどのような経路をたどって伝播しているのか,ある程度推察できるようになってきた。また,病原性に関与している遺伝子群を同定し,その機能を予測することもゲノム解析を抜きにしては考えられない(「細胞ハイジャック病原菌の巧みな戦略」6ページほか)。臨床の現場では,病原体の同定はゲノム解析で行うことがすでに常識となり

つつある。

 また,遺伝子組み換え技術の進歩は,病原微生物を運ぶ蚊などの遺伝子を操作するという新しい発想を生むことになった。もちろん,遺伝子操作した昆虫を野生に放すリスクを検討する必要はあるが,DDTなどの強力な殺虫剤によりマラリアなどの感染症が激減した歴史を見れば,リスクよりも利益が上回ることは確実で,このようなアプローチは今後さらに広がっていくだろう(「遺伝子組み換え蚊でデング熱を撲滅」54ページ)。

 さらに,遺伝子組み換え技術は,ワクチンの生産にも画期的な進歩をもたらしている。特に,新型インフルエンザウイルスのように,封じ込めに失敗すれば発見から短時間で感染が世界中に広がると予想される感染症の場合は,ワクチンの開発は一刻を争う。これまでのような鶏卵と弱毒化ウイルスを使ったアプローチでは間に合わないのは明らかだ。まだ開発の途中ではあるが,細胞培養と遺伝子組み換え技術を組み合わせて産生するワクチンは,この問題を解決するための大きなカギとなるだろう。

 

 もちろん,明るい話題ばかりではない。特に深刻なのは,このような最新のライフサイエンスの恩恵を受けてこなかった抗生物質の開発の遅れだろう。従来から知られているように,新しい抗生物質の開発とそれに対する耐性菌の出現はイタチごっこであり,たとえ新興国を含む世界中で抗生物質の濫用が控えられたとしても,耐性菌の出現を遅らせるのが精一杯で,完全に防ぐことはできない。そのため,次々と新しい抗生物質を開発して市場に出さなければ,耐性菌に対抗する手段がなくなってしまうのだが,その恐れが現実のものとなっていることが紹介されている(「しのび寄るスーパー耐性菌」14ページ)。特に,耐性菌の出現により抗生物質の薬としての寿命が短くなっていることが企業の開発意欲を削いでいるという問題は,感染症対策を市場原理に委ねることの危険性を警告している。企業が取り組みにくい分野での公的な支援は,これからの大きな政策課題だろう。一方で,深海の微生物など,これまでは手が届かなかった材料が徐々に使えるようになっているという朗報もある(「耐性菌と闘う新たな抗生物質」23ページ)。

 感染症対策は科学の進歩によって確実に進展しているが,政策である以上は,政治的判断や支援が必要な局面も多い。この別冊の最後に掲載した「冷戦下に生まれた生ワクチン」(140ページ)では,迅速で責任ある政治的決断が感染症対策に果たす役割を歴史から学ぶことができる。これらを含め,感染症に対する多様な視点を読み取っていただければと思う。

 

 

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著者

中西真人(なかにし・まひと)

独立行政法人産業技術総合研究所・幹細胞工学研究センター・副センター長,理学博士。1983年大阪大学大学院・理学研究科を修了。大阪大学細胞工学センター・助手,大阪大学微生物病研究所・助教授を経て,2001年より産業技術総合研究所に移り,2010年より現職。この間,1984 年から88年まで日本学術振興会・海外派遣特別研究員(テキサス大学),1993年から96年まで新技術事業団・さきがけ研究21研究員を兼務。専門は分子生物学・細胞生物学。独創的な遺伝子導入・発現技術を開発して難病の治療を実現することを目指しており,最近,この技術を応用してiPS 細胞を高効率で作製することにも成功した(Nishimura, et al., J. Biol. Chem., in press)