別冊日経サイエンス177『先端医療をひらく』の発刊にあたり,恩師である故・内田驍先生〔大阪大学細胞工学センター教授(当時)〕が監修した『細胞分子生物学』(日経サイエンス社刊)を読み直してみた。この本が出版された1986年は,それまで一部の分子生物学者だけが使える魔法であった遺伝子組み換え技術が,急速に一般の研究室へと普及した時期にあたる。ヒトを含む動物の生物学はこの時代を分水嶺として大きく変化していくのだが,『細胞分子生物学』からはその激動の夜明けとなる時代の息吹が伝わってきて,今読んでも新鮮な感動が伝わってくる。
『細胞分子生物学』から25年の間に生命科学は成熟し,研究の対象も細胞から動物個体,そしてヒトへと広がってきた。それを支えたのが遺伝子組み換え技術をはじめとするバイオテクノロジーである。PCR (ポリメラーゼ連鎖反応) 法の発明(1985年),自動DNAシークエンサーの発売(1987年),特定の遺伝子だけを人工的に破壊したノックアウトマウスの作製技術(1989年)など,この25年間に導入された革新的な技術を抜きにして,先端的な実験生命科学は存在し得なかった。これらの技術の原理を発明した研究者はすべてノーベル賞を受賞していることからもそれは裏付けられる。本書では,新しいバイオテクノロジーや情報技術の貢献という視点からも現在の生命科学の流れを実感してもらえるような編集を心がけた。
一方,この25年間に,研究者の視点も基礎的な生物学研究から臨床応用を視野に入れた医学研究へとダイナミックに変化してきた。それは,公的機関から配分される資金を使った研究成果について,その意義をわかりやすく説明する責任を求められるようになった時代背景とも無関係ではないだろう。さらに,これまでは生物学と医学中心であった学問体系が,周辺の薬学や工学・応用化学・情報工学などの「実学」を巻き込んで新しい展開を始めたのも特筆すべき傾向である。
この別冊では,他分野との融合も含む生命科学の複雑で大きな流れを概観することで,生命科学の次の10 年の展開を読者と一緒に考えてみたいと思う。
Chapter 1「iPS 細胞 急進展する研究」では,21 世紀になって最も注目されたバイオテクノロジーの一つ「人工多能性幹細胞(iPS細胞)」を取り上げた。iPS細胞は,新聞報道等で「万能細胞」と呼ばれて取り上げられることが多いので一般的な認知度は非常に高いと思われるが,iPS細胞の本質や研究の現状は意外と知られていない。この章で取り上げた4 編の記事がiPS 細胞研究の正確な理解の助けとなることを期待している。
日本の科学界では「バイオテクノロジーは,免疫学や細胞生物学のように生命現象を解明する学問より数段価値が低い」というような誤った考え方が広まっていて,日本人の研究者は海外で生まれた新しい技術やアイデアをいち早く取り入れて研究するのは得意な反面,前述したような革新的技術の発明に対して貢献した実例は意外なほど少ない。iPS細胞の発見は生命科学における数少ない日本発の技術という点でも意義が大きく,その実用化の過程で世界標準となるような新しい技術が日本から生まれることを期待したい。
Chapter 2「再生医工学の挑戦」では,iPS細胞とも関連して最近おおいに注目されている再生医療を取り上げた。ごく最近まで,両生類の手足は再生するけれどヒトを含む哺乳類では組織再生はあり得ないと考えられてきた。しかし最近では,動物の細胞の性質は可逆的に変化させうるというパラダイムシフトが生まれた結果,再生医療は夢物語から現実に達成可能な目標になりつつある(「失われた手足を再生する」)。
一方で,再生医療を実用化するためには生物学の成果だけでは不十分で,材料工学をはじめとするさまざまな分野の協力が必要不可欠となっている(「血の通った臓器をつくる」)。発生学も材料工学も日本が伝統的に強い分野なので,iPS細胞と同様に日本発の技術に期待したいところだ。「動物で育てるヒトの臓器」では日本発の研究の一端を紹介したい。
Chapter 3 「がんと闘う」で取り上げたがんの治療戦略は,基礎的な生命科学の成果が新しい医療の開発につながった代表的な分野と言ってもよいだろう。
従来の抗がん剤は非特異的に細胞増殖を抑制するため,全身投与による副作用は厳しいものがあった。がん細胞の異常な増殖を支えるタンパク質だけを直接攻撃する分子標的治療薬は,まさにこの点を乗り越えようとする新しい技術だ(「躍進した乳がん治療」)。特に抗体医薬品は,遺伝子組み換え技術をはじめとするさまざまなバイオテクノロジーの結晶であり,薬価が非常に高いという現在の欠点も今後の技術革新による解決が期待されている。
また,がん細胞の異常な増殖を栄養面から支える腫瘍血管が誘導される仕組みもしだいに分子レベルで明らかになり,分子標的治療薬の重要な開発ターゲットとなっている(「血管を正してがんを治す」)。日本が得意とするナノテクノロジーの分野でも,従来型の抗がん剤を精密なマイクロデバイスと組み合わせて標的化する医薬品の臨床試験が既に始まっている(「がん治療を変えるナノデバイス」)。
昨年話題になった「2010年問題」は,世界の大手医薬品メーカーの経営を支える主力製品が2010年を境に次々と特許切れを迎えるのに,次の収益源となる新薬の開発が進んでいないという経済問題として報道された。しかしこの問題は,これまでの化学中心の医薬品開発にも生命科学を中心とする大きなパラダイムシフトが必要となっていることを示している。
Chapter 3で取り上げた抗がん剤だけでなく,感染症・慢性疾患・疼痛など幅広い分野で生命科学やバイオテクノロジーの成果を取り入れずに次の展開はないところまで変
革が進んできた。Chapter 4では,そのような混沌とした状況を克服しようとする研究者の努力や,科学とは別の世界で動く医薬品開発の一面を紹介したい。
情報技術(IT )は,生命科学と並んで画期的な進歩を遂げた科学技術の一つである。16ビット仕様のIBM-PCが1981年,Macintoshが1984年に出現して,ようやく日常生活やオフィスでパソコンを使用することが現実的になったことを考えると,その歩みはちょうどこの25 年間の生命科学の発展と軌を一にしているとも言える。特に,情報処理システムの小型化と大容量化は医療技術を大きく変えた。1980年代では夢のような話であった人工器官や超小型ロボットによる診断は既に一部,実用化されている(「平衡感覚を取り戻す人工内耳」「のんで効く医療ロボット」)。最後に,手術等で採取した試料を顕微鏡で観察する病理診断など,職人的で地味だが極めて重要な医療技術にも,ようやく情報技術革新の恩恵が届き始めたという話題も紹介したい(「病理診断デジタル時代」)。
最初に「25年の間に生命科学は成熟し…」と書いたことと矛盾するようだが,生命科学の分野では,今も次々と技術革新が起こっている。例えば,バイオテクノロジーと材料工学・機械工学・情報工学が融合して開発された新型DNAシークエンサーは,近い将来,個々の患者の全遺伝情報を短時間かつ安価に解読することを可能にすると予想されている。10 年前にiPS細胞の樹立を具体的にイメージできなかったように,このような新しい技術が10 年後の医療をどのように変えているのかを予測するのは難しい。10年後に本書を読み返したら果たしてどんな感想を抱くことになるだろうかと,その日が少し待ち遠しい気もする。
これまで,科学技術上の発明とその実用化の間には深い「死の谷」があり,この谷を乗り越えるためには発明の何倍もの困難があるとされてきた。本書で紹介された先端技術も,実用化されるまでにはおそらく多くの壁にぶつかり試行錯誤を余儀なくされることだろう。特に医療技術では,効果だけでなく安全性の確保が非常に重要になるため,診断技術に比べてハードルが高いのは事実である。しかし,志を高く持たなければ,決して死の谷を越えることはできない。本書を読んだ若い世代からこの困難に挑戦する高い志を持った研究者が現れることを期待したい。
2011年1月 中西真人
著者
中西真人 (なかにし・まひと)
独立行政法人産業技術総合研究所・幹細胞工学研究センター・副センター長,理学博士。1983年大阪大学大学院・理学研究科を修了。大阪大学細胞工学センター・助手,大阪大学微生物病研究所・助教授を経て,2001年より産業技術総合研究所に移り,2010年より現職。この間,1984 年から88年まで日本学術振興会・海外派遣特別研究員(テキサス大学),1993年から96年まで新技術事業団・さきがけ研究21研究員を兼務。専門は分子生物学・細胞生物学。独創的な遺伝子導入・発現技術を開発して難病の治療を実現することを目指しており,最近,この技術を応用してiPS 細胞を高効率で作製することにも成功した(Nishimura, et al., J. Biol. Chem., in press)。