
あなたの友人が,人里離れた場所でハイキングをしている時に心臓発作に襲われたとする。病院に運び込まれたときには心臓の2/3が損傷を受け,元の元気な体に戻るのは不可能のようだ。しかしこの友人はもともとチャレンジ精神が旺盛で,開発されたばかりの実験的な治療法を受けることを志願した。 治療ではまず,他人から提供された卵子から染色体を取り除いたうえで彼の皮膚細胞から取り出した遺伝物質が注入された。遺伝的に改変したこの卵子を研究室で一週間培養して,初期胚にまで成長させる。この胚から取り出した細胞をさらに培養すると胚性幹細胞と呼ばれる細胞が出現する。胚性幹細胞からは心筋細胞をはじめ,さまざまな組織の細胞をつくり出せる。
医療チームは,あなたの友人の遺伝情報をもった胚性幹細胞をつくり,心筋細胞に分化するような条件で培養する。こうしてつくられた心筋細胞はその友人とまったく同じ遺伝情報をもっているので,拒絶反応を心配せずに移植できる。移植された細胞は増殖して心臓発作で壊れた細胞と置き換わり,友人は再び健康で頑強な体を取り戻した。
以上のような話はまだ空想にすぎないが,荒唐無稽なつくり話というわけでもない。これまでの研究から,ヒトの各組織はいろいろなタイプの幹細胞と呼ばれる細胞からつくられることが明らかになってきた。幹細胞自体は心臓・肝臓・脳といった器官に特有の性質を持つわけではないし,幹細胞が分裂してできた細胞もほとんどは未分化な幹細胞の性質のままだが,一部は最終的に体内組織の細胞がもっている性質(分化形質)を獲得する方向へと少しずつ変化していく。つまり,小腸の幹細胞は常に小腸内壁の細胞に分化し,皮膚の幹細胞は皮膚の細胞に,血液幹細胞なら血液の中にあるさまざまな細胞に分化する。幹細胞のおかげで私たちの体は日々傷んだりすり減ったりしてもちゃんと修復される。(本文から)
著者
Roger A. Pedersen
カリフォルニア大学サンフランシスコ校の産婦人科,生殖科学科の教授。彼は30年以上,動物の発生にかかわるさまざまな研究に携わってきた。現在は,初期発生におけるDNA修復の役割や,発生初期の細胞の分化と組織構築,胚性幹細胞の分化に関心がある。この論文に書いているように,ペダーセンはヒトのクローン作成に反対しているが,その意見はhttp://www.faseb.org/opar/cloning.moratorium.htmlで見れる。趣味は,単発の小型機の操縦とバイオリンの演奏という。
原題名
Embryonic Stem Cells for Medicine(SCIENTIFIC AMERICAN April 1999)