日経サイエンス  2010年5月号

細胞ハイジャック 病原菌の巧みな戦略

B.B. フィンレイ(ブリティッシュ・コロンビア大学)

 何万種もある細菌の多くは無害で,人間ともうまく共存している。これに対し,病気を起こす細菌はわずか100種程度だ。だが,その少数派の細菌に私たち人間は長い間苦しめられてきた。悪名高いペスト菌は,14世紀のヨーロッパで人口の約3分の1を死に追いやった。結核を起こす結核菌は毎年200万人の命を奪っている。最近の日本でも,腸管出血性大腸菌0157を原因とする集団食中毒が度々起きて問題になっている。

 

 病原菌研究はここ100年で目覚ましい成果を上げてきた。数多くの細菌毒素を発見し,抗生物質を使っていくつかの病原菌を抑え込むことにも成功している。しかし,病原菌が私たちの細胞を乗っ取る時に使う“戦略”についてわかってきたのは最近のことだ。多くの病原菌は下痢や発熱など同じような症状を起こすため,すべての病原菌が同じ仕組みで症状を引き起こしていると思われがちだ。だが,病原菌の攻撃方法は驚くほど多彩で複雑だ。

 

 病原菌は宿主細胞の構成因子や細胞間コミュニケーションをプログラムし直す作用のあるタンパク質を持っている。また,多くの病原菌にはそのタンパク質を宿主に注入するための特別な装置もある。病原菌はこれらの特別な道具を使って宿主細胞を操作し,自分に都合よく働かせる。

 

 私たちの体には,体内の異物を認識して殺すための免疫システムがあるが,病原菌はその免疫細胞をもだまして利用する。例えば,サルモネラ菌は自分を取り込んだ免疫細胞の中を自分に快適な環境につくり変え,そこで増殖する。免疫細胞のシグナル伝達を操作して自殺させたり,人体に無害な細菌を免疫細胞に殺菌させたりする病原菌もいる。

 

 病原菌が攻撃に使う道具や戦略の詳細が明らかになり,新たな感染症治療法が開発されつつある。病原菌を徹底的に殺そうとする旧来の抗生物質は,耐性菌がすぐに現れて問題になってきた。だが,病原菌の攻撃ツールを標的にする方法ならば,病原菌を生かしたまま無害化できるので,耐性菌も出現しにくいと期待されている。

 

 

再録:別冊日経サイエンス188 「感染症 新たな闘いに向けて」

著者

B. Brett Finlay

カナダのブリティッシュ・コロンビア大学微生物学・免疫学科と生化学・分子生物学科マイケル・スミス研究室のピーター・ウォール特別功労教授。病原菌と宿主との相互作用を分子レベルで研究し,いくつかの根本的な発見をもたらした。また,数々の科学賞を受賞している。イニメックス ・ファーマシューティカルズ社の共同設立者であり,SARSワクチン促進イニシアチブの理事長でもある。

原題名

The Art of Bacterial Wafare(SCIENTIFIC AMERICAN February 2010)

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