日経サイエンス  2009年10月号

特集:量子力学の実像に迫る

宇宙の未来が決める現在

Y.アハラノフ(テルアビブ大学) 鹿野豊 細谷暁夫(ともに東京工業大学)

 物理学の世界では知らぬ者のない物理学者ヤキール・アハラノフは,1988年,風変わりな提案をした。物質の量子力学的な状態を壊さずに,その状態を観測することができるというのだ。

 

 量子力学によれば,物質は相反する状態を同時に実現している。1個の光子は右と左に同時に進み,1個の電子はあちこちに同時に存在し得る。ただし観測した時に見えるのは,この中のたった1つだけ。ほかの姿は,観測の瞬間に消えてしまう。従って量子的な多重状態(重ね合わせ)を壊さず,すべて見ることは不可能だ──これが物理学の”常識”である。

 

 だがアハラノフは,観測対象をごく弱く何度も測定すれば,重ね合わせを壊さずにすべての状態を見ることができると主張。この手法を「弱い測定」と名付けた。弱い測定を用いれば,重ね合わせの結果として生じる量子現象,例えば粒子1個が作り出す干渉を壊さずに,それをもたらした重ね合わせを見ることができる。

 

 重ね合わせを普通に(強く)観測すると,毎回違う結果がランダムに現れる。それは別に不思議なところのない,ごく普通の物理現象だ。だがこの中から,ある特定の初期状態で始まり,特定の最終結果で終わる場合だけを抜き出して,その中間の重ね合わせを弱い測定で観測すると,極めて奇妙な現象が見えてくる。例えば干渉計の中に飛び込んだ粒子がある場所を通る確率が,「マイナス1」という負の値になる,などだ。こうした不思議な現象を,アハラノフは次々と予言した。

 

 だがアハラノフが弱い測定を考え出したのは,こうした不思議な現象を見いだすのが目的ではない。彼は宇宙全体の現在の状態は,かつて存在していた宇宙の始状態と,誰も知らないが確かに存在する宇宙の終状態によって,無数の重ね合わせの中から選ばれて実現していると考えている。「弱い測定値」の実験プロセスは,アハラノフのこうした宇宙観の小さなひな形なのである。彼は量子力学についての新たな見方を実験室の中で検証する手段として,弱い測定を考え出したのだ。

 

 本稿は特集「量子力学の実像に迫る」の第2弾。弱い測定の提唱者である,アハラノフ博士へのインタビューである。「弱い測定」を考えた理由から,予測される数々の不思議な現象,量子力学の新たな解釈,その宇宙への適用まで,余人を超えた発想の詳細を聞いた。

 

 

再録:別冊日経サイエンス186 「実在とは何か?」

著者

Yakir Aharanov / 鹿野豊 / 細谷暁夫

アハラノフはイスラエルのテルアビブ大学名誉教授、米チャプマン大学教授。1932年イスラエル生まれ。1959年に,量子力学の黎明期を築いたボームとともに,後にアハラノフ・ボーム効果と呼ばれる現象が起きることを予言。1980年代に日本の外村彰によって実証され,世界的に注目を集めた。テルアビブ大学のほか,米国のイェシーバー大学,サウスカロライナ大学でも教鞭を執る。1998年にウォルフ賞を受賞した。

鹿野は東京工業大学大学院博士課程に在籍中,細谷は同大学院教授。2人の専門は量子情報理論で,鹿野は量子力学の基礎,細谷は相対性理論にも詳しい。弱い測定の考え方を用いて量子力学を捉え直し,相対性理論とを橋渡しする研究に取り組んでいる。

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