日経サイエンス  2009年8月号

特集:幹細胞を医療現場へ

創薬に活躍するiPS細胞

詫摩雅子(編集部)

 成人の皮膚の細胞から人工多能性幹細胞(iPS細胞)を作ることに成功した直後,iPS細胞の生みの親である山中伸弥(やまなか・しんや)京都大学教授は,「再生医療への応用には10年はかかる」と機会あるごとに繰り返してきた。安全性の確認などにそのくらいは必要だからだ。その一方で,「すぐにでも応用が可能になる」と言ってきた分野もある。その1つが,iPS細胞を使った創薬支援技術だ。

 

 この4月,東京に本社のあるベンチャー企業のリプロセルはヒトiPS細胞を使った創薬支援の受託サービスを始めた。いよいよヒトiPS細胞が実用化されたのだ。同社がヒトiPS細胞から分化させた心筋細胞もニプロを通して販売される。製薬会社をターゲットにした商品だ。

 

 「ヒトiPS細胞が発表されたとき,再生医療への期待が語られたが,本当の意味で大きかったのは,ヒト細胞の安定した供給源ができたことだ」。こう語るのは同社の横山周史(よこやま・ちかふみ)社長だ。

 

 身体に“効く”すべての化合物は毒になる危険性も秘めている。このため,新薬の候補化合物は,ヒトでの臨床試験に入る前に,何段階にもわたって毒性の有無が検査される。そこでまず必要となるのはヒト細胞を使った細胞機能性試験だ。動物実験も行われるが,コストがかかるためにまず細胞での実験を先に行って,候補化合物を絞り込む。

 

 ところが,一般にがん細胞でないかぎり,体外に取り出したヒト細胞を永続的に増やすのは難しい。繊維芽細胞や間葉系幹細胞などは比較的分裂しやすいが,それでも分裂を重ねるうちに分化して別な細胞になったり,染色体異常を起こしたりする。幹細胞の性質を保ち,かつ,正常なまま無限に分裂する──それが,iPS細胞の際立った特徴なのだ。無限に増殖するということは,いったん手に入れれば細胞の安定した供給源になりうることを意味する。「一般の人にはぴんとこないかもしれないが,これは医学・生物学の研究に携わっている者にはものすごく大きな意味がある」と横山社長は強調する。

 

 薬の副作用を考えた場合,重視されるのは心臓と肝臓だ。ある種の化合物は,命にかかわる不整脈を引き起こすことが知られている。また,投与された薬が肝臓で処理されないと,いつまでも体内に残って“毒”となる。だが,ヒトの心筋細胞や肝細胞はなかなか手に入るものではないうえに,入手できたとしても増やすことはできないから,実験をするたびになくなってしまう。

 

 だが,iPS細胞ならばいくらでも増やすことができる。必要に応じていつでも望みのヒト細胞を得ることが可能になるのだ。肝臓の細胞はまだ難しいが,心筋細胞はすでに現実となり,薬の毒性試験を大きく変えようとしている。どくんどくんと実際に拍動する心筋細胞の塊から“心電図”をとりながら,新薬の候補化合物を培養チューブに加えてみる。これで細胞に異変が起きるかどうかが,新薬の最初の関門になるのだ。

 

 

再録:別冊日経サイエンス177「先端医療をひらく」

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