日経サイエンス  2009年3月号

なぜマジックにだまされるか

S.マルチネス=コンデ S. L.マクニック(ともにバロー神経学研究所)

 マジシャンは観客を煙にまくために,さまざまな手法を取り入れている。スモークや鏡,爆発音,照明の制御,手先の早業,大がかりな秘密の仕掛け……。だが,彼らにとって最大の武器は,観客に錯覚を起こさせるテクニックだ。マジックの世界では,観客の注意をそらす方法を「ミスディレクション」と呼ぶ。すぐれた手品師はこのミスディレクションの手法を自在に使う。

 

 ミスディレクションには「顕在的」なものと「潜在的」なものとの2種類がある。顕在的ミスディレクションは,観客に向かって特定の方向を見るよう指示し,その間にマジシャンがトリックを実行するような場合。一方,潜在的ミスディレクションには「変化の見落とし」と「非注意による見落とし」の2つがあり,これらは言葉や動作による明確な誘導を伴わない。

 

 観客は,目の前で行われたはずのトリックを“見落とす”のは,トリックが行われている最中に見るべき場所を正しく見ていなかったためだと考えるかもしれない。しかし,マジシャンはより高次の認知レベルで観客の注意を操っており,観察者がどこを見ているかは重要ではない。たとえば,「消えるボールの錯覚」というマジックでは,マジシャンはまずボールを真上に軽く放り上げ,落ちてきたボールを受ける。これを数回繰り返したあと,最後に放り上げる際,ボールを投げるふりだけする。マジシャンの頭と目は架空のボールの上向きの軌跡を追うが,実際のボールは放り上げずに手の中にこっそり隠す。しかし,ほとんどの観客が知覚するのは,(投げられていない)ボールが上方に向かい,そして空中で消えるという錯覚だ。

 

 このとき,観客の視線は,ボールが消えるのを見たと観客自身が主張する場所に向いていないことがわかっている。こうした錯覚は観客の眼球運動を担う脳のシステムがだまされた結果ではなく,マジシャンの頭と目の動きによって,観客の注意の焦点がボールの予測位置に向けさせられたせいで起こるのだ。マジシャンの頭と目の動きが示唆するボールの暗示的な動きに応答するニューロンが,実際の動きに対する感受性を持つニューロンと同じ脳の視覚野で見つかっている。暗示的な動きと現実の動きが似たような神経回路を活性化させるのであれば,この錯覚が真に迫って見えるのも不思議ではないだろう。

 

 マジックを見ている人の心理的変化を調べる研究はこれまでも行われていたが,著者らは,認知神経科学の視点から,マジックの手法を実験に取り入れ,認知や注意をつかさどる脳の仕組みを探ろうとしている。神経科学者がマジシャン並みにマジックを使いこなす技量を身につければ,意識の謎に迫ることができるかもしれない。

 

 

関連書籍:別冊日経サイエンス198「脳が生み出すイリューション 神経科学が解き明かす錯視の世界」

著者

Susan Martinez-Conde / Stephan L. Macknik

ともにフェニックスにあるバロー神経学研究所に籍を置く。マルチネス=コンデは視覚神経科学研究室長,マクニックは行動神経生理学研究室長を務めている。2人が執筆した「Windows on the Minds」がSCIENTIFIC AMERICANの2007年8月号に掲載されている(「目の動きから心が見える」日経サイエンス2007年11月号掲載)。2人は,キング(Mac King),ランディ(James Randi,“ジ・アメージング・ランディ”),ロビンズ(Apollo Robbins),テラー(Teller, ペン&テラーの一方)およびトンプソン(John Thompson,“ザ・グレート・トムソーニ”)といったマジシャンたちが研究に協力し,多くの識見を与えてくれたことに感謝している。2人はまた「意識の科学的研究協会」および「心の科学財団」にも感謝している。

原題名

Magic and the Brain(SCIENTIFIC AMERICAN December 2008)

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