日経サイエンス  2008年10月号

信頼のホルモン オキシトシン

P. J. ザック(クレアモント大学院大学/ロマ・リンダ大学医学センター)

 人間どうしが社会的にうまく機能するには,信頼が不可欠だ。しかし,新たに知り合った人を信頼すべきかどうか,私たちはどのようにして決めているのだろうか? 脳で作られるオキシトシンという神経伝達物質が信頼を築くうえで重要な働きをしていることが,「信頼ゲーム」という実験によってわかった。オキシトシンの機能や他の重要な脳内物質との相互作用をさらに研究すると,自閉症など社会的相互作用の不全を特徴とするいろいろな疾患について多くのことがわかってくるだろう。

 

 オキシトシンはたった9個のアミノ酸からできたペプチド(小さなタンパク質分子)で,信号を伝える神経伝達物質として働いている。また血中に漏れ出して脳と離れた組織にも影響を及ぼすので,ホルモンでもある。オキシトシンが果たす役割としては,授乳期の女性に母乳の分泌を促すことと,陣痛の誘発が最もよく知られている。その他の微妙な効果は検出しにくかったが,動物を対象にした研究から,ある種の動物ではオキシトシンが何らかの仕組みで協力を助長していることがわかっていた。

 

 そこで私は,オキシトシンが信頼の基盤となっていて,親密な関係を生むための必要条件なのではないかと考えた。血液試料中のオキシトシン濃度のわずかな変化を信頼性高く短時間で計測する方法が開発されたので,私たちはこの仮説を確かめる実験を行った。

 

 その前提として,見知らぬ人どうしがどれほど信頼し合っているかを計測する方法が必要だ。幸い,実験経済学者たちが,うまい方法を1990年代半ばに開発ずみだった。「信頼ゲーム」と呼ばれるものだ。

 

 見知らぬ被験者が2人1組のペアになる。片方を被験者1,他方を被験者2としよう。被験者1はコンピューターの指示に促されて,所持金10ドルのうちいくらかを相手に送金するかどうかを決める。被験者1が出したお金の3倍が,被験者2の口座に加算される。次に,コンピューターが被験者2に入金を知らせた後,いくらかを被験者1に戻す機会を与える。ただし,被験者2はまったく返金しなくても構わない。返金する場合,被験者2の口座からその金額がそのまま差し引かれる(3倍額が引かれるのではない)。

 

 被験者1が被験者2にいくらかを送金し,被験者2がそこそこの金額を返金した場合には,両者ともに利益を得る。しかし,被験者2が被験者1を裏切って出し惜しみすると,被験者1は損をする。被験者1が被験者2を信頼する程度は,その送金額によって評価できる。また,被験者2が信頼に足るかどうかは,被験者1への返金額によって測ることができる。私たちは被験者たちが決定を下した直後に採血し,オキシトシン濃度を測った。また,オキシトシンを経鼻スプレーで吸入してもらい,影響を調べた。

 

 一連の実験から,オキシトシンが信頼を強めること,信頼に応える行為を強めることがわかった。また,オキシトシン濃度が異常に高い数人の被験者2はまったく返金しなかった。オキシトシンに対する脳の反応に問題があって,病的になっている可能性がある。私たちの研究室では現在,脳でのオキシトシンの働きが損なわれることが社会的相互作用の不全を特徴とする疾患に関係しているかどうかを精力的に調べている。

 

 

再録:別冊日経サイエンス184「成功と失敗の脳科学」

著者

Paul J. Zak

クレアモント大学院大学の経済学教授で,同大学の神経経済学研究センターの所長(創設者でもある)。ロマ・リンダ大学医学センターで神経学の臨床教授も務めている。ペンシルベニア大学で経済学のPh. D. を取得,ハーバード大学のポスドク研究員としてニューロイメージングの研修を積んだ。最近の著作に「Moral Markets: The Critical Role of Values in the Economy」(Princeton University Press, 2008)がある。

原題名

The Neurobiology of Trust(SCIENTIFIC AMERICAN June 2008)

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