日経サイエンス  2008年7月号

特集:再生医療

特集:再生医療 iPS細胞の衝撃

詫摩雅子(編集部) 監修:中内啓光(東京大学)

 「できる」と思われてはいなかったことを誰かが成し遂げたとき,周囲は衝撃を受ける。近年の医学・生物学の分野で“衝撃”と呼ぶにふさわしい成果というと,10年ほど前のクローン羊ドリーの誕生と,京都大学・山中伸弥(やまなか・しんや)教授の「人工多能性幹細胞(iPS細胞)」がまず確実に上がってくるだろう。どちらも“科学者仲間の大ニュース”ではなく,世界中がトップニュースとして報道した。

 

 ドリーの誕生は衝撃こそ大きかったが,戸惑いや反対の声もあった。理論的には同じ手法でクローン人間が可能になるからだ。だが,iPS細胞に関しては歓迎ムード一色と言っていいだろう。

 

 iPS細胞は「胚性幹細胞(ES細胞)」という非常に特殊な細胞と同じように,無限の自己増殖能力と身体を構成するすべての細胞に分化する多能性を併せ持つ。ES細胞との違いは,作り方だ。

 

 ES細胞を得るには,母胎に戻せば赤ちゃんとなる初期胚を壊さなければならない。これに対し,iPS細胞は大人の皮膚の細胞などに特定の遺伝子を導入することで作れる。そしてこの作り方の違いは,ES細胞が抱える問題点をクリアすることに直結している。

 

 文部科学省はヒトの初期胚を「生命の萌芽」と位置づけ,そこから得るヒトES細胞についても「人の尊厳を侵すことのないよう,誠実かつ慎重に扱う」ことを求めている。このためヒトES細胞は,作ることはもちろん研究目的で使うにも厳しい条件が定められており,国や研究機関の審査が必要になる。しかしiPS細胞ならば大人の細胞からつくれるので,こうした問題はない。

 

 将来,再生医療に応用する場合にも,ES細胞の問題点をiPS細胞はクリアできる。再生医療は機能不全になった細胞や組織・臓器を,培養細胞などで置き換えようというもの。あらゆる細胞に分化させることができるヒトES細胞は1998年の発見以来,再生医療の担い手として大いに期待されてきたが,倫理面以外にも,患者の免疫系による拒絶問題をどうするか,という課題があった。患者の細胞からクローン技術(体細胞核移植)によってヒトクローン胚を作り,そこからES細胞を得るという方法が考えられたが,技術的に難しい上に,倫理的な問題はかえって増えてしまう。それでも挑んだ挙げ句に捏造スキャンダルが起きたほど「患者と同じ遺伝情報をもつES細胞」は熱望されていた。iPS細胞はヒトクローン胚という手法を経ずに,これに応えた細胞なのだ。

 

 昨年11月にヒトiPS細胞の開発成功が発表されると,ヒトES細胞の使用に反対の立場をとっていた米国大統領府(ホワイトハウス)やローマ教皇庁(バチカン)が,いち早くこの開発を歓迎するコメントを発表した。連日のように続報が新聞紙面をにぎわせ,対応の遅さが批判されることの多い“お役所”も異例の速さでiPS細胞研究を後押しする体制を整える。この傾向は第一報から半年がたつ今も変わらない。

 

 再生医療への期待とともに語られることが多いiPS細胞だが,実際に,iPS細胞が臨床で応用されるには,まだ乗り越えるべき課題がある。また,iPS細胞の開発は基礎生物学の側面からも非常に大きく,興味深い成果と言える。ここでは,基礎生物学的に見たiPS細胞の面白さと再生医療に向けた課題を紹介したい。

 

 

再録:別冊日経サイエンス177「先端医療をひらく」

監修:中内啓光(なかうち・ひろみつ)
東京大学医科学研究所・幹細胞治療研究センター幹細胞治療部門教授。日本再生医療学会理事長。造血幹細胞の研究で知られる。たった1個の造血幹細胞からマウスの骨髄を再建し,造血幹細胞の自己増殖能力と各種の血球細胞への分化能力を示した研究は有名。

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