日経サイエンス  2008年2月号

治験薬と患者の権利

B. L. ベンダリー(ジャーナリスト)

 アビゲイル・バローズ(Abigail Burroughs)は21歳の若さで亡くなった。遺された父親たちは現在,米食品医薬品局(FDA)の長官であるエッシェンバッハ(Andrew von Eschenbach)を相手取った訴訟を起こしている。「開発中の薬剤を入手しやすくするためのアビゲイル連盟対アンドリュー・フォン・エッシェンバッハ」訴訟で,原告側は「医師が推奨する実験的薬剤を使えば命が助かる可能性があったにもかかわらず,アビゲイル・バローズは政府の規制によってその薬を入手できなかった。このことは憲法で保障されている生存権を侵害するものだ」と主張している。

 

 新薬の有効性や安全性を確かめるための臨床試験を「治験」と呼んでいる。新薬承認に必要な一連の治験を終えるには,だいたい10年かかる。一方には,効果がまだ立証されていなくても治験薬の投与を切望する瀕死の患者たちの悲痛な願いがある。また一方には,数十年にわたって守られてきた薬剤試験手順の“ゴールドスタンダード”を死守すべきとする科学者たちがいる。どちらの陣営も患者の命を守りたいと考えている。異なっているのは,その崇高な目的を達成するための最良の戦略についてだ。

 

 治験薬は安全性に関しては限られた証拠しかなく,ヒトに対する有効性についてはまったく証拠がないこともある。だが,もし連盟が勝利すれば,患者たちは治験薬を広く入手できるようになる。臨床試験協会などの反対派は,そんなことになれば,45年以上にわたって医療の進歩を支えてきた臨床試験のシステムが大打撃を受ける,と主張する。治験薬を入手できるなら,患者たちは治験に参加するのを嫌がるようになり,ある薬剤が有効かつ安全であるかどうか決定する最も確実な方法はなくなってしまうというのだ。

 

 バローズの主治医だったジョンズ・ホプキンズ大学の腫瘍専門医は,エルビタックス(セツキシマブ)かイレッサ(ゲフィチニブ)を使えば,彼女の頭頚部の扁平上皮がんに効く可能性があると考えていた。彼女の腫瘍では上皮増殖因子受容体(EGFR)が増えており,この2つの薬はこれを攻撃するからだ。しかし当時はまだ両方とも承認を得ていなかった。彼女は治験に参加を希望したが,それもできなかった。実験段階の薬を治験以外で例外的に使用すること(コンパッショネートユース)を許可する法律もあるが,どちらのメーカーもその法律に基づいて彼女に薬を提供することはなかった。製薬会社は,治験の参加者には無料で治験薬を提供するが,その供給量は少ないことが多く,治験参加者以外に提供する義務はない。

 

 この論争は結局,二律背反の要求からどちらを選ぶかという問題だ。つまり「長期的に見て患者にとって最も良いのは何かということだ。厳密に設計された手順に則った臨床試験を行うのをあきらめて有望な薬を早期に使用するほうがいいのか,薬の早期使用を妨げても今後の意思決定に役立つ厳密な臨床データを得ることを優先すべきなのか」とFDAの医療科学問題担当の元次官のゴットリーブ(Scott Gottlieb)は2007年2月の白書で述べている。この白書は,ワシントンにある非営利教育組織,食品医薬品法研究協会によって発行されたものだ。

 

 治験外で薬を使用するために患者が金を支払うということになれば,製薬会社は「科学的に厳格で,金のかかる臨床試験プロセス」を経るよりも「未承認の薬を販売する」ことのほうに走る可能性があると,FDAは今回の控訴裁判所に提出した弁論趣意書で述べている。誰もが好きな薬を選べるようになると,有望な薬に害を及ぼしかねない,という批判もある。非常に重い病気にかかっている人が薬を不適切に使えば,深刻な副作用が生じる危険性がある。そうなるとFDAはその薬の認可を拒否するだろう。認可されていれば,適切な使い方で患者を救えるかもしれないのに,その可能性を奪うことになりかねない。

著者

Beryl Lieff Benderly

健康・科学関連を得意とするワシントンのジャーナリスト。受賞歴もある。著書にIn Her Own Right: The Institute of Medicine's Guide to Women's Health Issues (National Academies Press, 1997年)などがある。

原題名

Experimental Drugs on Trial(SCIENTIFIC AMERICAN October 2007)

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