
殺人ウイルスと聞いて思い浮かぶのは,アフリカのエボラウイルス,アジアのSARS,米国ならハンタウイルスあたりだろうか。ところが,そうした悪名高いウイルスよりも「ロタウイルス」のほうがはるかに多くの命を奪っている。ロタウイルスの名前は一般にはそれほど知られていないが,米国や日本でも新生児から幼児期の子どものほとんどがこのウイルスに感染する。症状は下痢と嘔吐(おうと)だ。
下痢は重症になる場合が多く,治療せずに放置すると,脱水症状を起こして死に至ることもある。世界中で,ロタウイルスは毎年約60万人の子どもの命を奪っている。5歳未満の死因のうち,約5%はこのウイルスが原因だ。米国ではロタウイルスによって子どもが死ぬことはめったにないが,毎年数百万人が感染し,少なくとも7万人が入院して治療を受けている(日本でも感染者の割合や入院が必要となる割合はほぼ同じと推測されている)。
だが,ようやくこの殺人ウイルスの魔手を逃れる手立てが見つかった。ロタウイルスが病原体として確認されてから約30年が経過した今年1月,新しい2つのロタウイルスワクチンが大規模な臨床試験で成功を収めたと発表された。ロタウイルスワクチン開発の道は,想像以上に困難で紆余曲折があり,挫折や驚きの連続だった。今日,世界保健機関(WHO)と「ワクチンと予防接種のための世界同盟」はどちらも,ロタウイルスワクチンを最優先事項と考えている。ワクチンを本当に必要とする幼い子どもたちに,予防接種を普及させたい。その実現に向け,最後の戦いの幕が切って落とされた。
病原体を突き止める
ロタウイルスがヒトに下痢症をもたらす病原体であることが突き止められたのは1973年のことだ。ロタウイルスを発見したのはオーストラリアのメルボルンにある王立小児病院で消化器疾患の研究をしていた微生物学者,ビショップ(Ruth Bishop)だった。当時,子どもの下痢症は研究者たちを悩ませていた。下痢症はよく見られる病気だが,ときどき重症になることがある。それなのに原因となる病原体や毒物が突き止められることはめったになかった。彼女たちのチームは急性の下痢症にかかった子どもの十二指腸や小腸から生検で採取した組織を電子顕微鏡で調べた。ビショップたちはその写真を見て驚愕した。腸の内壁を覆っている上皮細胞の中に車輪形のウイルスが一面に広がっていたのだ〔ロタ(rota)はラテン語で車輪の意味〕。
私がロタウイルスとかかわるようになったのは,バングラデシュの国際下痢症疾患研究センターで働くことが決まり,妻とともにその地に移り住んだ1979年のことだ。首都ダッカにあるセンターの病院には,毎年,得体の知れない“おなかにくる風邪”でたくさんの子どもたちが入院していたが,患者数が多すぎて廊下や野外のテントで治療をしなければならないこともあった。
当時,下痢症の原因は細菌だと私たちは考えていた。コレラ菌やサルモネラ,赤痢菌に大腸菌など,下痢を起こす細菌は多い。ところが,たくさんの子どもを苦しめていた犯人がウイルスであることを知って驚いた。簡単な検査で調べたところ,下痢症で私たちの病院に入院する5歳未満の子どもの25~40%が,ロタウイルス下痢症であるとわかった。
世界各地から寄せられた研究結果もほぼ同様だった。さらに,ロタウイルスがただ広範囲に蔓延しているだけでなく,貧しい国々ではおもな死亡原因になっていることも明らかになった。世界中で見られる子どもの下痢の原因ではロタウイルスが抜きん出てトップであり,生後3カ月から5歳に達するまでにほぼすべての子どもがロタウイルスに感染するという疫学的事実が現在ではよく知られている。汚染された食物や水を介して広がる細菌の場合は貧しい地域に患者がかたよることが多いが,ロタウイルスには地理的境界はないようだ。実際,この病原体は広くどこにでも見られ,米国人もバングラデシュの人々と同じ感染リスクにさらされている。風邪のウイルスと同じように簡単に広がるのだ。そして風邪ウイルスがそうであるように,衛生状態を改善したり,飲料水をきれいにしても,感染防止にはあまり役立たない。
ロタウイルスは非常に感染力が強い。わずか10個のウイルス粒子が体に入っただけで,幼児は下痢症を起こすことがある。それを治療せずに放置すれば,下痢によって子どもの体から10%もの水分が失われ,ほんの1日か2日の間にショック状態に陥ることもある。
幸いにも,最初の感染から回復できれば後遺症に苦しむことはない。また,再度ロタウイルスによる重い下痢症を経験することもめったにない。免疫を持つようになるからだ。つまり,免疫系は最初の感染で,ロタウイルスを認識できるようになり,次にウイルスが侵入したときには抑え込めるようになる。しかし,多数の子どもが最初の感染で激しい下痢に苦しみ,命を落とすことがある。子どもに免疫をつけるワクチンを作ることが,多くの命を救うための最良の手段と考えられる。
著者
Roger I. Glass
米国立衛生研究所(NIH)フォーガティーセンターのディレクター。今年の4月中旬まで米疾病対策センター(CDC)のウイルス性胃腸炎室長だった。また,エモリー大学の小児医学と国際保健学の客員教授を務めている。疫学の第一人者で,疾病予防におけるワクチンの重要性を説く彼は,世界保健機関(WHO)と「ワクチンと予防接種のための世界同盟」,「保健分野における適正技術移転プログラム(PATH)」に助言を与えている。1998年には,ロタウイルスワクチンに関する業績により「子どもワクチン構想」からパスツール賞を授与された。著者はこの記事への図の作成を快く手伝ってくれたハーバード大学医学部のドーミッツァー(Philip R. Dormitzer)に感謝している。
原題名
New Hope for Defeating Rotavirus(SCIENTIFIC AMERICAN April 2006)
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