日経サイエンス  2005年4月号

実用段階に入った量子暗号

G.スティックス(SCIENTIFIC AMERICAN編集部)

 1989年,米IBMで画期的な実験が行われた。光子を偏光させて暗箱の中を飛ばし,これを検出器でとらえて偏光の向きを測定,情報を読み取った。盗聴が不可能な「量子暗号」を使って暗号鍵を送る世界初の実験だ。

 

 それから15年後の昨年,2つのベンチャー企業がそれぞれ量子暗号を使った初の通信システムを製品化した。IBMでの最初の実験では光子の伝送距離はわずか30cmだったが,現在のシステムはもちろん,これをはるかに超える。スイスの企業は10km離れた場所に置いたサーバーを専用線で結び,量子暗号通信によって安全にデータをバックアップ保存するシステムを公開した。

 

 量子暗号は,量子力学と情報理論を融合した量子情報科学から生まれた。量子力学によれば,光子の偏光は,測定したら変化する。IBMのベネットらはこの原理を情報通信に応用し,送信中に盗聴されたらそれを確実に発見できる仕組みを考案した。盗聴されなかったことが確認できた光子の情報を暗号鍵として用い,メッセージを暗号化して送れば,中身が盗み見られることは決してない。

 

 現在使われている暗号は,ある種の数学の問題は計算に膨大な時間がかかり,事実上解けないことによって安全性を確保している。将来,ケタ違いの計算能力を持つ量子コンピューターが実現すればこの前提は崩れてしまうが,量子暗号の安全性は揺るがない。

 

 量子暗号は政府機関や金融関係者の注目を集めるが,伝送距離がまだ短いのが難点だ。測定したら光子の情報が変わってしまうという量子暗号の強みは,一方で,伝送中に光子の信号が減衰しても増幅が不可能ということを意味する。増幅のためには情報を測定する必要があるからだ。信号は光ファイバーの中を伝わるうちに弱まり,数十kmしか届かない。

 

 伝送距離を延ばすため,さまざまな研究が進んでいる。1つは光ファイバーを使わず,光子を直接空中で伝送する方法だ。伝送距離が1000kmまで延びれば低軌道衛星まで届き,全世界をカバーする量子衛星通信ネットワークが実現する。

 

 もう1つは光子の情報を次の光子に伝える量子中継器の開発だ。量子もつれになった光子ペアを介してある光子の状態を別の光子に移し変える「量子テレポーテーション」の技術を使う。量子テレポーテーションの基礎実験はすでに行われているが,中継器を開発するためには,光子の情報を記憶する量子メモリーなど精緻な部品の開発が必要で,まだ時間がかかりそうだ。

 

 原理的には絶対安全な量子暗号も,内部の人間が秘密を漏らすことは防げない。それでも今後の量子情報科学の時代には,現在のどの暗号よりも,秘密を守るのに有効な手段になることだろう。

 

 

再録:別冊日経サイエンス別冊161 「不思議な量子をあやつる 量子情報科学への招待」

原題名

Best−Kept Secrets(SCIENTIFIC AMERICAN January 2005)

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