
1970年代から1980年代にかけて,バングラデシュ政府は,ユニセフが先頭に立つ国際支援団体と協力して,清潔な水を国中の村に供給するという大がかりなプロジェクトに着手した。当時,細菌だらけの地表水(川や池の水)を飲んで下痢を起こし,死亡する子どもがあとを絶たなかった。
解決策として考えられたのが「管井戸」だった。地表水を使う普通の井戸とは異なり,地下の比較的浅いところにある帯水層までボーリングで細長い穴を掘り,シンプルで頑丈な手押しポンプで水を汲み上げるという方法だ。
1990年代初めまでには,バングラデシュの人口の95%が“安全な水”を手に入れられるようになった。その供給源のほとんどすべてが1000万本を超える管井戸だ。ほかの点では貧窮している国としては珍しい成功例といえた。
だが,悲しいかな,水中ヒ素濃度を調べようとする人はいなかった。今日,バングラデシュの管井戸の約30%から,井戸水1リットル当たり50μg以上のヒ素が検出される。さらに5~10%の井戸にはこの量の6倍以上のヒ素が含まれていることがわかっている。バングラデシュ政府はヒ素含有量が1リットル当たり50μgを超える水を危険と指定している。ということは,人口のほぼ1/4にあたる,少なくとも3500万人の人が,命にかかわる濃度のヒ素を含む水を飲んでいるということになる〔ここでは同国政府の定める1リットル当たり50μgを「基準値」とする。世界保健機関(WHO)の上限値や日本の水質基準値は10μgだが,残念ながら値が小さすぎて現地調査では検出できない〕。
これはバングラデシュだけの問題ではない。インド,ネパール,ベトナム,中国,アルゼンチン,メキシコ,チリ,台湾,モンゴル,そして米国や日本などさまざまな国で,飲料水にヒ素の混入した地域が見られる。
全世界で5000万人もの人々に,やがて深刻な被害がおよぶ可能性がある。飲料水のヒ素汚染は,チェルノブイリの原発事故を上回る史上最悪の大規模な中毒事件といえる。
著者
A. Mushtaque R. Chowdhury
1977年以来,世界最大規模で最も成功をおさめている民間開発組織のひとつであるバングラデシュ地域振興委員会(BRAC)にかかわってきた。委員会の研究・評価部門を立ち上げ,ヒ素汚染緩和の取り組みの指揮をとっている。バングラデシュで生まれたチョウドフリは,まずダッカで教育を受け,1986年にはロンドン大学公衆衛生・熱帯医学大学院からPh.D.を授与された。発展途上国における健康問題について多数執筆している。母子保健に関する国連ミレニアム・プロジェクト・チームのリーダーを共同で務めており,現在はコロンビア大学客員教授。
原題名
Arsenic Crisis in Bangladesh(SCIENTIFIC AMERICAN August 2004)