日経サイエンス  2004年9月号

遺伝子ドーピング

H. L. スウィーニー(ペンシルベニア大学)

 オリンピックをはじめ,スポーツ競技では規制薬物使用の疑惑が絶えない。近い将来,通常の検査では見抜けない新種のドーピングが登場するおそれがある。筋肉疾患を治すための遺伝子治療を悪用すると,簡単に筋肉を増強できるのだ。

 

 筋肉の成長と修復は体内の生化学分子によって調節されており,その分子は遺伝子によってコントロールされている。代表的な筋ジストロフィー症であるデュシェンヌ型筋ジストロフィーは遺伝子変異によってジストロフィンというタンパク質ができなくなるのが原因だ。また,筋肉の再生過程ではインスリン様成長因子1(IGF-1)という物質が細胞分裂を活発化させ,ミオスタチンという別の調節因子は増殖を抑制している。

 

 人工の遺伝子を導入してこれらの分子を増やしたり阻害したりすれば,加齢や病気で失われた筋肉を復元できる。米国ではジストロフィンの遺伝子を導入する遺伝子治療の臨床試験がすでに計画されている。

 

 同様の手法を運動選手が使うと,筋肉を増やし,筋力や回復力を高められるだろう。導入遺伝子が作り出したタンパク質は筋肉組織の中だけに生じ,血液や尿には出てこない。また,もともと人体の中にあった天然タンパク質とまったく同じなので,区別できない。このため薬物利用と違って検出困難で,証拠が残らない。

 

 スポーツ界はこうした遺伝子治療が新たなドーピングの手段として使われるのをどうすれば避けられるか,科学者に対策を諮問している。しかし,この種の遺伝子治療が臨床試験を経て広く普及すれば,運動選手による利用を防ぐのは不可能になるだろう。一方では遺伝子操作による能力増強に対する見方も変わってくる可能性がある。

著者

H. Lee Sweeney

ペンシルベニア大学医学部教授,生理学科長。米国立関節炎・筋骨格疾患研究所(NIAMD)の科学顧問,筋ジストロフィー症の子を持つ親の会(PPMD;ParentProject Muscular Dystrophy)の科学担当理事,米国筋ジストロフィー症協会のトランスレーショナルリサーチ顧問委員会のメンバーも務める。研究範囲は広く,細胞が運動して力を発揮する仕組み(特にミオシンファミリーと呼ばれる一群のタンパク質)に関する基礎研究のほか,筋肉細胞の構造・挙動に関する知見に基づいてデュシェンヌ型筋ジストロフィー症などを対象にした遺伝子治療法を開発する研究にも取り組んでいる。世界アンチ・ドーピング機構(WADA)が2002年に開いた遺伝子ドーピングに関するシンポジウムで重要な役割を果たした。

原題名

Gene Doping(SCIENTIFIC AMERICAN July 2004)

サイト内の関連記事を読む

キーワードをGoogleで検索する

筋線維サルコメアサテライト細胞筋強直性ジストロフィーベルジャンブルーエリスロポエチンデザイナーステロイド