
片手で持てる初の計算機は電気式ではなく,機械式だった。加減乗除ができ,平方根の計算にも利用できた。答えは11桁のデジタル表示。「クルタ計算機」というこの機械,発明者はクルト・ヘルツシュタルク(CurtHerzstark,1902~1988年)という人物だ。第二次世界大戦中,ナチスのブーヘンヴァルト強制収容所に囚われていた間に設計を完成させた。独自の計算手法と機械技術を採用し,小型軽量化を実現した。
ヘルツシュタルクの父親はウィーンで事務機器を売っていたが,やがて卓上計算機の工場を立ち上げた。商売は繁盛し,若きクルトはオーストリア中を計算機の実演をして回るようになった。第一次世界大戦中,一家の工場は軍需物資を生産し,大戦後は中古計算機の販売を手掛けた。1930年代,ヘルツシュタルクは携帯型計算機の開発を志し,1937年の末までには独創的な小型計算機のアイデアをほぼ固めた。
しかし,ナチスのオーストリア侵攻に伴い,ユダヤ系だったヘルツシュタルクは収容所送りに。ところが,優秀な機械設計技術者であることが知られて軍事用精密部品の製造を命じられ,さらには計算機の開発を許された。
戦後,リヒテンシュタインの皇太子がこの設計に興味を示し,国策会社としてコンティナという企業を設立。ここで製造されたクルタ計算機は1950年代から60年代にわたって科学者や技術者,測量士,会計士などに幅広く使われた。ヘルツシュタルクはその後コンティナ社を去り,リヒテンシュタインの質素な集合住宅に住みながら,イタリアとドイツの事務機器メーカーの顧問を務めた。クルタ計算機は大きなモデルチェンジもなく着実に売れ続けたが,1970年代に電卓が普及するようになって支持を失った。
いまや安価な電卓でずっと速く計算できるようになったが,収集家はいまもクルタ計算機を大切に保有している。見事な計算能力を体験するにつけ,機械的に洗練され,優れた信頼性を備えていることに感服させられる。クルタ計算機は西洋の機械職人技能の極致にして,1人の人間が戦争という障壁を乗り越えて作り上げた不朽の名作なのだ。
著者
Cliff Stoll
『カッコウはコンピューターに卵を産む』によって,インターネット初期にハッカー集団の存在を暴いたことで知られる。その他の著作には『コンピューターが子供たちをダメにする』や『インターネットは空っぽの洞窟』などがある(いずれも邦訳は草思社)。惑星科学でPh.D.を取得したが,現在は機械式計算機を復元したりクラインの壺を作ったりしていて,たまに物理学を教えることもある。カリフォルニア州オークランドに妻と子ども2人,つがいのネコとともに暮らしている。この記事の執筆に当たって,クルタ計算機の専門家であるファー(RickFurr),マイヤー(Jan Meyer),クリステンセン(Jack Christensen),ハマン(Chris Hamann)から得た支援に感謝している。またミネソタ大学チャールズ・バベッジ研究所に対して,コンピューター史研究者トマシュ(ErwinTomash)によるヘルツシュタルクへのインタビュー(1987年)を使用させてくれたことについて謝意を表している。本文中の引用はここからのもの。
原題名
The Curious History of the First Pocket Calculator(SCIENTIFIC AMERICAN January 2004)
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