
約100年もの間,神経科学の分野では,次のようなことが定説として信じられてきた。「成人の脳は変化せず安定していて,一定の記憶と情報処理能力を持ったコンピューターのようなものだ」と。脳の細胞が失われると,それが担っていた記憶は一生失われたままになる。他にどんな考え方ができるというのか。もし,脳の構造が変化するなら,記憶を呼び戻すこと自体が不可能になるではないか。一定の人格を保つことさえできなくなってしまうではないか。
皮膚や肝臓,心臓,腎臓,肺,血液などでは,たとえ細胞が失われても,少なくともある程度は新たな細胞が作り出されて,不足分を補える。しかし最近まで,中枢神経系(脳と脊髄)にはこの再生能力が備わっていないと考えられていた。だから,医師はこう言うしかなかった。「脳にダメージを受けないようにしてください。もとに戻す方法はありませんから」。
しかし,この5年間で,一生を通じて脳でも新しい細胞が生まれていることが明らかになってきた。そしてこの発見のおかげで,私たちはとても前向きに考えられるようになった。新しい細胞が生まれて神経回路ができることによって,私たちは一生のうちに出遭うさまざまなトラブルにうまく対処していけるのだろう。新たな細胞を生み出すことによって,脳が傷ついたり病気になったりしたときにそれを修復しているとも考えられる。また,健康な脳でも考えたり感じたりする能力をさらに高める道さえも見えてくる。
著者
Fred H. Gage
サンディエゴにあるソーク生物学研究所の遺伝学研究室の教授で,カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)の準教授。1976年にジョンズ・ホプキンズ大学でPh.D. を取得。1994年にソーク研究所に移る前はUCSDの神経科学部門の教授だった。米国科学振興協会の会員で,米国科学アカデミーと米国医学協会のメンバー。2002年に米国神経科学会議の会長。1993年に健康と教育における先駆的業績に対してチャールズ・A・ダイナ賞,1997年にクリストファー・リーブ研究メダル,1999年にマックス・プランク研究賞,2002年にメットライフ賞を受けた。
原題名
Brains, Repair Yourself(SCIENTIFIC AMERICAN September 2003)
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