
日々の生活の中で,1杯の上質なコーヒーほど私たちの五感を直接に楽しませてくれるものはそう多くはないだろう。
新鮮な焙煎豆から淹れたばかりの熱いコーヒー。そこから立ち上る誘惑の香りには,どんな朝寝坊だってのそのそとベッドから起き上がってくる。通りを行き交う人もカフェへ吸い寄せられずにはいられない。コーヒーのカフェインがないとどうも1日頭がすっきりしないという人も多いはずだ。
これほど日常にありふれた飲み物も,化学的にみると実に複雑だ。コーヒー豆の生産から焙煎,抽出という過程でのほんのわずかな違いが,コーヒーの味や香り,こくを決定づける数百種にものぼる成分にきわめて微妙な影響を与える。それらを知らなければ,いつも同じようにおいしいコーヒーを淹れることは不可能だ。
コーヒーの専門家なら,エスプレッソはコーヒーの真髄を表すものだという意見で一致するだろう。エスプレッソは小さな厚手のデミタスカップに半量ほど入った,濃厚で濁りのあるコーヒーだ。表面はベルベットのように厚い赤褐色のクレマと呼ばれる泡で覆われている。
クレマは非常に薄い膜で包まれた小さな気泡が集まったものだが,かなり長い時間消えずにその形を保っている。クレマはエスプレッソ独特の味と香りを逃さず,またコーヒーを冷めにくくしている。
エスプレッソという名前は「即座に」あるいは「注文ごとに」という意味のイタリア語(espresso,英語でいうexpress)から来ている。エスプレッソは細挽きにして押し固めたコーヒーの粉の層に,少量の熱湯を圧力をかけて一気に通過させて抽出したものだ。
出来上がりは非常に濃厚で,水溶性の成分だけでなく,脂溶性の香り成分も微小な油滴に溶け込んだ状態で分散している。これらが独特の深い味わいと香り,舌触りを生み出す。
コーヒー好きの人々によると,完璧に淹れたエスプレッソは“究極のコーヒー”だという。この特別な抽出法がコーヒー豆本来の持ち味を引き出し,際立たせるからだ。
コーヒーの抽出法にはトルコ式をはじめ,さまざまな浸漬式・ドリップ式のものがある。エスプレッソはこれらすべての抽出法の集大成ともいえる。エスプレッソを知ることはすべてのコーヒーを知ることだ。
“完璧な50粒”を目指して
品質のよいコーヒーを得るには,農園から工場,そして淹れ方まで,多くの条件を厳しく管理することが求められる。農産物としてのコーヒー豆は,収穫した時点でもう品質は決まってしまっている。一度収穫してしまったら,もう何も加えたり除いたりできない。
だからこそコーヒーは栽培のときから無数の要因に目配りし,適宜調節する必要がある。1杯のエスプレッソを淹れるには50から55粒のコーヒー豆が必要だが,そこに1粒でも不完全な豆が混じっただけで,誰の舌にも明らかなほど味が台無しになってしまう。
人間の嗅覚や味覚はこういった不純物を見のがさない。腐った,すなわち自分にとって有害な食べ物から身を守るため鋭敏に発達してきたのだ。50粒のコーヒー豆をいつでも完璧に,かつ経済的に選別するには最新技術の導入が欠かせない。
著者
Ernesto Illy
イリカフェ(illycaff イタリア・トリエステ)社会長。イリカフェは彼の父が1933年に創業した会社で,同社のエスプレッソはイタリアだけで1日に200万杯以上飲まれている。化学の博士号を取得し,分子生物学も学んでいる。科学技術を駆使して完璧な究極のエスプレッソを作ることを目指している。
原題名
The Complexity of Coffee(SCIENTIFIC AMERICAN June 2002)
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