
ワトソン(James Watson)とクリック(Francis Crick)による1953年のDNA二重らせん構造の発見は,普通には分子生物学全盛時代の始まりと考えられている。しかし,ある意味ではこれは旅の終わりだった。
細胞が生物の単位であるとわかったのは,19世紀末のことだ。以後,顕微鏡や生化学の力を借りて細胞よりも下のレベルへと探索は進み,細胞内での染色体の挙動やタンパク質・核酸などの分子を調べられるようになった。こうして細胞から核へ,染色体へ,DNAへと,全生物の「共通性」を求めたおよそ半世紀にわたる探索の旅が進んだ。そして,DNAが遺伝子の物質的本体であり,その二重らせん構造が巧妙な自己複製システムの基盤になっていることが明らかになった。
このあとの20世紀後半における生物学の発展は,ゆっくりと生物の多様性に向かって進んでいった。いったん全生物に共通なシステムが発見されれば,興味が各生物群における「独自性」へと移っていくのは当然の流れである。ある生物種のすべての遺伝情報である「ゲノム」の塩基配列を解読しようというゲノム計画も,こうした歴史的流れの中に位置づけられる。
真核生物では,パン酵母,エレガンス線虫,ショウジョウバエ,シロイヌナズナ,フグ,マウスなどの「モデル生物」を中心にゲノム計画が進められてきた。これらの研究は,真核生物,動物,植物,脊椎動物,哺乳類といった広範囲な生物群に共通する遺伝子の特徴を発見することが主要目的の1つとなっている。ヒトで疾患にかかわる遺伝子が見つかったときに,同じ遺伝子がマウスなどにもあれば,その遺伝子が作るタンパク質の役割を実験的に詳しく調べられるからだ。
独自性を調べる旅の始まり
一方,2001年2月に配列の概要が公表されたヒトゲノム計画の目的は,これとは少し異なっている。なんと言っても,人間自身のゲノムを明らかにするという,大きな意義がある。「自分自身」を知るということはきわめて重要だ。また実用面では,さまざまな病気の遺伝要因を解明する基盤となるだろう。さらに,ヒトにはモデル生物に劣らない研究の蓄積がある。モデル生物のような交配実験はできないが,病気などの形で現れた珍しい表現型の研究や家系解析などが長年にわたって行われてきた。
ヒト以外のゲノムを明らかにすれば,人間そのものを知ることにもつながる。生物が多様であるのは,それぞれの種に独自性があるからにほかならない。そして,その根底には進化によってゲノム内に蓄積されてきた遺伝子の変化がある。
たとえば,ヒトは,チンパンジーとの共通祖先から600万年ほど前に分岐した。ヒトとチンパンジーの形態や行動の違いはその後の600万年間にそれぞれの系統で蓄積した遺伝的な変化から生まれたはずだ。このような種の独自性を突き詰めていくには,複数の近縁な種を調べて,それらを比較する必要がある。つまり,生物進化の過程で徐々に蓄積していった各生物系統の「独自性」を調べていくことが,ゲノム計画の次の段階となる。
著者
斎藤成也(さいとう・なるや)
国立遺伝学研究所・進化遺伝部門助教授。テキサス大学ヒューストン校でPh.D.を,東京大学で理学博士号を取得した。専門は遺伝子進化学,人類進化学で,とくに人間性を規定している遺伝子群を探索している。類人猿とヒトのゲノムを比較する計画をシルバー計画と名付けたのは,本文にあるようにApegenomesの頭文字にちなむが,もともと銀が好きなのと,黒髪がすっかり銀髪になってもこの研究を続けるという決意を表しているという。