日経サイエンス  2001年9月号

特集:脳の言語処理

特集:脳の言語処理 手話失語から探るメカニズム

G.ヒコック(カリフォルニア大学) U. ベルージ(ソーク認知神経科学研究所) E. S. クリマ(カリフォルニア大学)

 人間の脳をめぐる最大の謎の1つは,どのように言語を理解し,処理しているのかということだろう。今日では,脳の左半球にあるブローカ野とウェルニケ野が言語処理にきわめて重要であることがわかっている。ブローカ野が傷つくと,音声言語を理解することはできるものの,なめらかに話せなくなる。ウェルニケ野の損傷の場合は,話すことは流暢にできるが理解に深刻な障害が起きる。

 

 脳の右半球に同じような損傷があっても,失語症と呼ばれるこのような言語障害を引き起こすことはまれだ。多くの場合,右半球の損傷は,言語障害の代わりに視覚的な空間認知の深刻な障害を引き起こし,患者は例えば,単純な線画を描き写すことさえ難しくなってしまう。

 

 ウェルニケ野とブローカ野の位置は,以下の理由から理にかなっていると考えられている。つまり,音声言語の理解にかかわるウェルニケ野は,脳で耳からの信号を受け取る部位である聴覚中枢の近くに存在する。また,音声言語の生成にかかわるブローカ野は口や唇の筋肉をコントロールする運動中枢の隣に位置している。しかし,本当に耳で聞いたり口で話したりする機能に基づいて,脳が組織化されているのだろうか?

 

 過去20年間,私たちは,手話を最初の言語(母語)として習得した聴覚障害者について研究してきた。彼らの手話を理解する能力と手話の表出能力を調べることで,手話を認識し生成する脳の部位が,音声言語と同じかどうかを検討しようと取り組んできた。

 

 手話単語は視覚空間的な信号なので,脳の右半球にあるシステムで支えられていると考える人がいるかもしれない。そうすると,手話習得者の場合,手話でウェルニケ野に相当するものは視覚の処理に関係する脳の部位の近くに存在し,ブローカ野に相当するものは手と指,腕の運動を調整する運動野の近くに存在するという推測になる。

 

 この仮説を検証し始めた1980年代,2つの基本的な疑問があった。手話習得者が脳に損傷を受けると,手話に支障をきたすのか。もしそうなら,その障害はウェルニケ失語やブローカ失語と類似したものであるのか,という疑問である。両方の疑問に対する答えはイエスだった。

 

 これらの手話失語症を引き起こす脳損傷はどこにあるのだろう。答えは驚くべきものだった。両方の患者とも左半球のある部位に損傷があった。しかも,同じような言語障害をもつ健聴者の患者での部位と同じ場所に損傷があった。手話理解に困難を示す手話習得者は,ウェルニケ野を含む部位に損傷を受け,手話を作り出すのに困難を示す患者はブローカ野を含む部位に損傷を受けていた。

著者

Gregory Hickok / Ursula Bellugi / EdwardS. Klima

 3人は,10年以上,手話の失語症について共同研究している。ヒックコックは,カリフォルニア大学アーバイン校の認知科学部門の準教授であり,脳認知研究所の所長を兼任し,言語の機能に関する解剖を研究している。ベルージは,カリフォルニア州ラホーヤにあるソーク認知神経科学研究所の所長で,言語とその生物学的基礎についての研究をしている。彼女の研究の多くは,クリマとの共同研究だ。クリマはカリフォルニア大学サンディエゴ校の名誉教授となった今も,ソークで研究を続けている。

原題名

Sign Language in the Brain(SCIENTIFIC AMERICAN June 2001)