日経サイエンス  2000年12月号

注射のいらない食物ワクチン

W.H. R. ラングリッジ(ロマ・リンダ大学)

 さまざまな感染症との長い戦いの中で,ワクチンという武器は奇跡と言えるような戦果を人類にもたらしてきたが,華々しい成果の陰には,まだ世界の幼児の20%にはワクチンを届けることすらできないという悲しい現実が隠されている。ワクチン接種を受けられないためにこれらの感染症にかかって死亡する人の数は毎年200万人を数え,特に先進国から離れた貧困地域では深刻な問題となっている。

 

 1990年代の初め,当時テキサスA&M大学にいたアーンツェン (Charles J. Arntzen)は,発展途上国の多くの子供たちがワクチンの恩恵を受けられないでいる事態をどうやったら解決できるかと頭を悩ましていた。ちょうどその頃,冷蔵保存の必要がなく安価な経口ワクチンの開発をWHOが呼びかけていた。その話を耳にした直後にタイのバンコクを訪れたアーンツェンが見たものは,泣きやまない我が子にバナナを与えてなだめる母親の姿だった。

 

 タンパク質の設計図である遺伝子を植物に導入して,その遺伝子がつくるタンパク質を含む遺伝子組み換え植物を作る技術はすでに開発されていた。それを知っていたアーンツェンは,野菜や果樹に遺伝子組み換え技術を応用して,食用部分にワクチンの成分を含むような組み換え作物(野菜や果物)を作れれば,接種が必要な時に食べるだけで目的が達せられる「食べられるワクチン(食物ワクチン)」ができるのではないかと考えた。

 

 食物ワクチンには,数え切れないくらい多くの利点がある。組み換え作物は,その土地柄に合った作付け方法によってどこででも簡単に栽培できるうえ,多くの作物では収穫の一部を次の植え付け用の種子や苗として使えるので,農家は毎年のように高価な種子や苗を買わなくてもすむ。理屈の上では一度栽培すれば繰り返し同じ作物を収穫できるはずだ。また,従来のワクチンが製造してから使用するまで,長距離輸送中も保存中もずっと低温に保つ必要があるのに比べると,地元で作られる食物ワクチンは輸送手段も冷蔵庫も確保する必要がないので,総経費ははるかに安くつく。さらに,経口投与ワクチンは接種のための注射器を必要としないという点も重要だ。経費の問題もさることながら,医療レベルの低い地域では,病原体に汚染された注射器を通して感染が広がる恐れがあるからだ。

著者

William H. R. Langridge

感染症や自己免疫疾患を予防する食物ワクチン開発のリーダーの1人。カリフォルニア州にあるロマ・リンダ大学医学部の生化学部門の教授と,同大学の分子生物学・遺伝子治療研究センターの教授を勤めている。1973年にマサチューセッツ大学アムハーストト校で生化学の博士号を取得した後,コーネル大学のボイス・トンプソン植物研究所で昆虫と植物の遺伝学の研究に従事した。その後,1987年にアルバータ大学エドモンストン校にある植物バイオテクノロジー・センターに移り,1993年からロマ・リンダ大学に在籍している。

原題名

Edible Vaccines(SCIENTIFIC AMERICAN September 2000)