きょうの日経サイエンス

2023年10月2日

2023年ノーベル生理学・医学賞:COVID-19に対するmRNAワクチンの開発を可能にした2氏に

2023年のノーベル生理学・医学賞は,新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に対する効果的なmRNAワクチンの開発を可能にしたヌクレオシド塩基修飾の発見に対して,米ペンシルベニア大学のカタリン・カリコ(Katalin Karikó)非常勤教授と同大のドリュー・ワイスマン(Drew Weissman)教授に授与される。

mRNAワクチンはCOVID-19ではじめて実用化したワクチンだ。その構造は簡単で,脂質膜でできた100nmほどのカプセルの内側に人工的に合成された紐状のmRNAが閉じ込められている。COVID-19向けのワクチンの場合,mRNAにはウイルスの表面に突き出した突起部(スパイク)の設計情報が記載されている。



これまでのワクチンには,弱毒化生ワクチンや不活化全粒子ワクチンといった病原体をまるごと含むワクチンや,病原体の一部のタンパク質だけを培養細胞の中で合成した組み換えタンパク質ワクチンがあった。病原体の全体,又は一部を用いたこれらのワクチンと違って,mRNAワクチンは病原体の設計情報だけが含まれた「デジタル」なワクチンといえる。ウイルスベクターワクチンは,無害なウイルスのDNA中に病原体の設計情報の一部を組み込んである。



DNAの情報はmRNAへ一時的にコピーされ,mRNAの情報をもとにタンパク質が作られる──全ての生物に共通するこのシステムがわかった当初,mRNAの医療応用は遠い夢に思われた。mRNAは体内ですぐに壊れるはかない物質だからだ。1990年にはマウスの筋肉にmRNAを導入してタンパク質を作らせる米ウィスコンシン大学のウォルフ(J. A. Wolff)らの実験が成功して医療応用の機運が高まったが,その後も長く難航が続いた。

越えなければならないハードルは2つあった。1つは先述の通り,mRNAが体内ですぐに分解される物質である点。そしてもう1つは,人為的に合成したmRNAを体内に入れると,過剰な免疫応答で炎症が起きてしまう点だ。カリコ氏とワイスマン氏の功績は,後者のハードルを越えたことにある。

細胞をコンピューターに例えるなら,DNAはハードディスク上に保存された実行ファイルで,mRNAはメモリ上に読み込まれたプログラムだ。そこに書かれた命令はただちに実行されるため,発行元が不明なプログラムが紛れ込んでいないか,細胞はとても慎重にRNAを見張っている。実際の細胞でセキュリティを担うのが自然免疫と呼ばれるシステムだ。ウイルス感染などで外部からRNAが侵入すると,この自然免疫が活発に働く。RNAを壊して命令が実行されないようにすると同時に,周囲の細胞にも異常事態を知らせる。こうして炎症が起こる。

カリコ氏とワイスマン氏は,細胞が持つこのセキュリティの仕組みを詳細に調べた。自然免疫は細胞内のRNAを手当たり次第に攻撃するのではない。自分自身のmRNAと,外から入ってきた外来RNAを見分けて,外来RNAだけを攻撃していた。手がかりは,RNAを構成する4種類の塩基が類似の他の物質と入れ替わった「修飾塩基」にあった。修飾塩基が自身のRNAの目印になっていた。

2氏は人為的にmRNAを合成し,RNAを構成する4種類の塩基を様々な「修飾塩基」と入れ替えて細胞の反応を調べていった。その結果,ウリジン(U)を類似の「シュードウリジン」と入れ替えれば外来mRNAへの過剰な炎症応答を抑えられることが2005年にわかった。自身のmRNAを外来RNAから区別する仕組みを突き止めることで,mRNAを医療に応用する道がようやく開けた。



修飾塩基を用いたRNAであれば,外来のRNAであっても過剰な免疫応答を起こさない。その分mRNAが長く細胞内に存在でき,RNA上にコードされたタンパク質がきちんと合成される。COVID-19向けワクチンの場合,合成されるのはウイルスのスパイクタンパク質だ。



壊れやすいmRNAを細胞までどう運ぶかというもう1つのハードルについては,遺伝子治療の実現を目指して行われてきた薬物送達システム(DDS)の研究が大きな力となった。脂質膜にmRNAを包んで細胞まで届ける仕組みが考案され,2010年代にはmRNAをワクチンに使用する動きが活発になった。2017年には初めてmRNAワクチンの安全性がヒトで確かめられ,2019年の段階でインフルエンザやエイズ,HPV,ジカ熱,チクングニア熱などのワクチンで臨床試験が行われていた。

こうした状況で2019年に発生したのがCOVID-19だ。COVID-19に対するワクチン開発は驚異的なスピードで進み,たった1年で実用化にこぎ着けた。しかしその背後にはカリコ氏やワイスマン氏,そしてその他大勢の研究者による30年以上の研究の蓄積がある。



COVID-19のmRNAワクチンは直径100nmほどの脂質ナノ粒子に乗って細胞まで運ばれ,細胞内のmRNA翻訳システムを用いてスパイクタンパク質が作られる。このスパイクタンパク質によって免疫応答が引き起こされ,スパイクに対する免疫が獲得される。スパイクに結合する抗体を作るB細胞や,ウイルス感染細胞を直接攻撃するT細胞が接種部位の近くのリンパ節で大量に生み出され,全身へと配備される。



mRNAワクチンはCOVID-19への対処のために世界規模で接種が行われ,重篤な副反応がまれであることも明らかになってきた。無論,COVID-19で使用されたmRNAワクチンにも改良の余地はあり,より高い効果が得られるワクチンの開発が今も進められている。また,mRNAは感染症のワクチンだけでなく,がん治療や遺伝子疾患の治療,再生医療にも応用できる可能性があり,その一部はすでに現在臨床試験が始まっている。カリコ氏とワイスマン氏が開いた扉の先には,mRNAが見つかった当初には想像すらされなかった,mRNA医療の沃野が広がっている。

(編集部 出村政彬)

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