イッカクの記録〜日経サイエンス2021年9月号より
その牙に北極の環境変化が刻まれている
イッカクの牙が環境に関する数十年分の情報を記録し,北極の変化を明確に示していることが,最近のCurrent Biology誌に報告された。らせんを描いて伸びるイッカクの牙は年ごとに新たな層を成長させ,イッカクが摂取した炭素と窒素の同位体や水銀の一部を取り込んでいる。研究チームは生活のためにイッカクを狩猟しているグリーンランド北西部のイヌイットから10本の牙を購入し,そこに50年分の情報が含まれていることを見いだした。
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これほど長期間のデータを入手できたことは「イッカクの食物や水銀レベルなどに影響する要因を把握するうえで,実に素晴らしい一歩だった」と,研究論文の筆頭著者となった加マギル大学の海洋生物学者デフォージュ(Jean-Pierre Desforges)はいう。
温暖化で食物が変化
研究チームはイッカクの牙(実のところは象牙質でできた歯)を切り開き,その一部をすりつぶして粉にして,同位体の含有量を解析した。その結果はイッカクがどこで何を食べたかや,水銀への曝露を示している。水銀は体内に蓄積すると動物の免疫系や生殖器系に影響を及ぼす毒物だ。
イッカクの生息地の多くが海氷で覆われていた1960年代から1990年代にかけて,イッカクはオヒョウなど食物網の上位に位置して海氷の近くや海底近くにいる魚を食べていたことが,炭素と窒素の同位体から示唆された。1990年以降に海氷が急激に縮小すると炭素同位体の特徴が変わり始め,ホッキョクダラやカラフトシシャモなど氷のない海域にすむ魚を食べていたことを示した。これらの魚種は食物網の数段下に位置しているので,一般には水銀の含有量が少ない。それでもイッカクはかなり多くの水銀を摂取していた。これは気候変動または排出量の増加,あるいは両者の組み合わせが原因だろうと研究チームはみている。
食料の変化はイッカクの汚染物質曝露と栄養取得に影響し,最終的に個体数の水準を変える可能性がある。より広い意味では,この研究は北極域とそこに生息する生物が気候変動にどう反応しているかを追跡するのにイッカクの牙が役立つ可能性を示していると,加マニトバ大学の海洋生物学者ワット(Cortney Watt,この研究には加わっていない)はいう。「環境中に実際に何が排出されているかを探る優れた見張り役だと思う。イッカクの牙は北極の歴史を記録した優れたアーカイブであり,現在起こっている変化も物語ってくれる」。■
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