2012年10月10日
ノーベル物理学賞 量子力学の基礎実験の最高峰 光子/イオンの状態を操り、測る
10/17訂正)以下でご紹介したアロシュ教授の実験は,論文として発表されていないことがわかりました。学会で出た話ですが,将来計画として紹介されたものである可能性が高いです。お詫びして訂正します。 |
2012年のノーベル物理学賞は,米国立標準技術研究所のワインランド(David Wineland)博士と,フランスの高等師範学校/コレージュ・ド・フランスのアロシュ(Serge Haroche)教授に授与されることになりました。
2人は量子力学の基礎実験における,押しも押されもせぬトップランナーです。ワインランド博士は空中に並べたイオンの列,アロシュ教授は共振器の中に閉じ込めた原子と光子を使った実験システムを構築。これを使って量子力学の根幹に関わる実験を次々にやってのけ,量子コンピューターや超精密時計など,量子現象を直接に利用するまったく新しい技術への足がかりを築きました。
光子やイオンなどのミクロな世界は,私たちに馴染みのある世界と違って,「シュレーディンガーの猫」のストーリーで語られるような,不思議な多重状態になっています。光子がある状態と,ない状態。エネルギーが高い状態と,低い状態。振動している状態と,止まっている状態。私たちの日常生活では「どちらか一方」しか起こらない2つの状態を,両方同時に実現することができるのです。物理学ではこの状態を「重ね合わせ」と呼びます。
両博士が作った実験システムは,まさにそういう重ね合わせ状態を極めて巧妙に作り,操り,観測することができる仕掛けです。巨大な加速器や宇宙望遠鏡も使わず,ただ実験室の机上に組み上げた精妙な装置で,両博士はそうした不思議な量子現象を次々と観測してきました。
ワインランド博士は,電磁場を使って空中にイオンを一列に並べた「イオントラップ」と呼ばれる実験の第一人者です。イオンの間には電磁気力が働き,ちょうど一次元の結晶格子のような状態になっています。1個1個のイオンは,エネルギーの低い状態か高い状態になっています。またイオン全体が結晶格子のように振動しており,その振動状態は粒子のように数えることができて,フォノンと呼びます。そしてイオンのエネルギーは「高くて低い」,イオン全体のフォノンは「0個で1個」という重ね合わせ状態になることができます。
このイオン列にレーザーを照射すると,あるイオンのエネルギーの重ね合わせ状態が全体のフォノンの重ね合わせ状態に移り,それがまた別のイオンのエネルギーの重ね合わせ状態を作ります。こうして重ね合わせが次々に移っていき,ワインランド博士はイオン6個を,異なるエネルギーの重ね合わせ状態にすることに成功しました。生きている状態と死んでいる状態が重ね合わさった「シュレーディンガーの猫」を,イオンで作ったような実験です。
このように重ね合わせを移していく過程は,量子コンピューターの基本的な計算操作でもあります。ワインランド博士は1994年の国際会議で,まだ理論しかなかった量子コンピューターについて聞き,量子コンピューターを本気で作ろうと最初に考えた実験家の1人です。翌1995年に,イオンを使った量子コンピューターの2ビットの演算に世界で初めて成功し,量子コンピューターの実験研究の起爆剤となりました。
ワインランド博士は,今も量子コンピューター実験の最前線を走っています。最近では,基板の上にトランジスタを並べるようにイオントラップをいくつも並べ、プロセッサーとメモリーとに使い分けて、その間でイオンを移動させながら計算していく「量子集積回路」の構築を目指しています。また,単一イオンを使った超精密時計の開発も進めており,日本で開発された超精密時計,光格子時計のライバルとなっています。
一方,アロシュ教授の実験装置は,超伝導で作った凹面鏡で光子を閉じ込めた「超伝導キャビティ(共振器)」です。この中に「リドベルグ原子」と呼ばれる,ほとんどイオンに近い原子を注入すると,キャビティの中に光子が1個飛び出してきて,そのままそこに閉じ込められます。
光子というのは光の要素ですので,文字通り光のように飛び去ったり,どこかに吸収されて消えてしまったりし,本来一カ所にとどめておくのは非常に難しいのです。ですがアロシュ教授の超伝導キャビティを使えば,光子を極めて長い時間,閉じ込めておくことができ,光子を使った様々な実験が可能になりました。
例えばキャビティを2つ続けて並べ,その中にリドベルグ原子を飛ばします。通過時間などの条件をうまく調節すると,1つめのキャビティで1個の光子が「飛び出す」と「飛び出さない」の重ね合わせになります。
この原子が次のキャビティを通る時に同様の操作をすると,不思議なことが起こります。「最初のキャビティに光子があり,2つめのキャビティにはない」状態と「最初のキャビティに光子がなく,2つめのキャビティにある」状態が,同時に実現するのです。いわば2重の重ね合わせで,これを「量子もつれ」と呼びます。
共振器の中に光子の数にして10個に満たない,ごく弱い光を閉じ込めておきます。そこにエネルギーが高いリドベルグ原子を入れると,閉じ込められた光の位相(波の形)が進みます。一方エネルギーが低い原子が来ると,位相は逆に遅れます。実験では,原子をあらかじめエネルギーが「高い」状態と「低い」状態の重ね合わせにしてから,共振器に入れました。すると原子の重ね合わせが共振器の中の光に広がって、「原子のエネルギーが高くて光の位相が進んだ」状態と「原子のエネルギーが低くて光の位相が遅れた」状態の重ね合わせになりました。
アロシュ教授はこのほか,キャビティの中に沢山たまった光子の数をカウントし,しかもその光子を保っておける実験(通常はこの種の測定をすると光子は消えます)など,量子力学現象を目の当たりにさせる実験を次々と実現してきました。
この超伝導キャビティは,アロシュ教授らのチーム以外に,世界でもほとんど作れる人がいません。その意味でアロシュ教授の研究もまた,文字通り他の追随を許しません。
アロシュ教授は,日本の量子コンピューター実験のリーダーである山本喜久スタンフォード大学/国立情報学研究所教授とは長年にわたって共同研究をしています。ですが量子コンピューターの実現性については,むしろ慎重な立場を取ってきたのが,また興味深いところです。
両博士は量子コンピューターに対しての意見は異にしますが,その先駆的な実験研究が,量子コンピューターをはじめとする量子情報の研究に刺激を与え,今日の隆盛をもたらしたのは間違いありません。(古田彩)
D. Leibfried, D. J. Wineland et al, “Creation of a six-atom ‘Schrödinger cat’ state” Nature, 438, 639, dpi:10.1038 (2005)
M. Brune, S. Haroche et al, “Quantum Rabi Oscillation: A Direct Test of Field Quantizaion in a Cavity”, Phys Rev Lett. 76, 1800 (1996)
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