「誤差」って何?〜日経サイエンス2012年6月号より
電子の位置を測るとき,そこに「真の値」は存在するか
ハイゼンベルクの不確定性原理の式を書き換え,実験的に検証された小澤の不等式(特集「小澤の不等式」2012年4月号)についての議論が盛り上がりを見せている。3月に開かれたこの分野の名物研究会「量子論の諸問題と今後の発展」(QMKEK)では特別セッションが組まれ,同月末の物理学会でも議論になった。4月には東京でパネルディスカッションが開かれ,提唱者である小澤正直名古屋大学教授と物理学者,哲学者らが討論した。
議論の焦点は,小澤の不等式に出てくる「誤差」が物理的に妥当かどうかだ。言葉としては難しくない。念のため辞書を引くと「真の値と測定した値との差」(現代国語辞典)とある。小澤教授はその通り,「誤差」を「メーターの値と測りたい物理量の真値の差の2乗平均」と定義して,不等式を導いた。
この誤差の定義は,一見当たり前のように見えるが,実はやっかいな問題を含んでいる。量子力学においては「測りたい物理量の真値」が何かは,一筋縄ではいかないからだ。
私たちが住む古典的な世界では,物体の位置は1つに決まっている。これが位置の「真値」で,それを調べることを「測定」という。一方,量子力学では,話はそう単純ではない。物体は異なる場所に同時に存在し,いわば可能性がある範囲全体に波のように広がった状態になっている。位置を測定すると,この波がどこか1点に集まって,ある決まった位置を取る。「波束の収縮」と呼ばれる変化だ。
この場合,測定前の「位置の真値」とは何だろうか? 明らかに1つには決まらないし,存在するのかどうかもよくわからない。こうした状況で,「測定値と真値の差」というような概念が,果たして意味を持つだろうか。 QMKEKで小澤教授が不等式の導出について発表すると,東京大学大学院生の渡辺優さん(現在は同大特任研究員)がすかさずこの点を突き,論争の口火を切った。「その誤差の物理的な意味は何ですか」。
渡辺さんは「僕の解釈では,測定したい物理量の『真値』はない」と話す。「違う解釈もあるだろうが,そもそも解釈によって意味づけが変わるような値を定義の中で使ってもよいのか」。
渡辺さんは昨年,小澤教授とは異なる別の誤差の定義を提唱した。小澤教授が提唱した誤差はどんな測定に対しても成り立つ一般式だが,渡辺さんは測定対象の物理量を繰り返し測定し,その期待値を推定するという状況を想定している。「そもそも,誤差というのはどんな実験するかを決めないと定義できない」(渡辺さん)。誤差は一連の測定値から得られる情報量,擾乱は位置の測定によって失われる運動量の情報量を用いて定義した。
この誤差と擾乱について改めて不確定性関係の式を導くと,ハイゼンベルクの式は破れなかった。それどころか誤差と擾乱の積の下限がハイゼンベルクの式よりも大きくなり,より早く精度の限界に達することがわかった。
小芦雅斗東京大学教授は「渡辺の誤差は限られた状況にしか適用できないが,物理的な意味は明確に与えられている」と話す。「小澤の誤差はあらゆる場合に適用できるが,物理的な意味がわかりにくい」。
それでも真値はある
一方で,小澤の誤差の物理的な意味合いを積極的に評価し,むしろ量子力学の伝統的な解釈の方を見直すべきだとの意見もある。(続く)
続きは現在発売中の6月号誌面でどうぞ。