量子計算,イオン方式が先行〜日経サイエンス2006年5月号より
「もつれ」の生成や操作で,他の手法よりも一歩先んじた
量子コンピューターの開発に向けて,いろいろな技術が追求されている。超電導素子,光子に基づく系,量子ドット,スピントロニクス,分子の核磁気共鳴を利用するものなど,さまざまだ。ところが最近,イオン捕捉を実験している複数のチームがそれぞれ画期的な成果を上げた。他の方法では達成が難しいとみられる離れ業だ。
誤り訂正技術の基本に
通常のビットは0か1のどちらかの値を取るが,量子コンピューターが扱う量子ビット(キュービット)はそれらの重ね合わせ状態にもなり得る。「0であること」と「1であること」が,ある比率を持って,単一の状態に組み合わさっている。
多数の量子ビットを重ね合わせる際に重要な意味を持つのが,「量子もつれ」という状態だ。量子もつれにある複数の量子ビットは不思議なことに,それぞれの状態が他の量子ビットの状態と関連しあう。アインシュタイン(Albert Einstein)はこれを「距離によらない不気味な作用」と呼んだ。
例えばいわゆる「シュレーディンガーの猫状態」の量子ビットの場合,どの量子ビットも測定されると同じ結果(0または1)を示す。ただし,0となるか1となるかは完全にランダムだ(「シュレーディンガーの猫状態」という名前は,0と1が猫の生死に対応するあの有名な思考実験に由来する。個々の量子ビットは猫の体内に存在する全粒子にあたる)。
量子ビットの誤り訂正では,この「猫状態」が基本的な技術要素となる。量子ビットの状態は極めて壊れやすく,そのエラーは量子計算を目指す試みにとって悩みの種だ。
猫状態とW状態
コロラド州ボールダーにある米国立標準技術研究所のワインランド(David J. Wineland)とライブフリード(Dietrich Leibfried)らのチームは,4個と5個,そして6個のベリリウムイオンからなる「猫状態」を作り出した。電磁トラップによって真空中でイオンを一列に捕捉し,レーザーで状態を操作する。6個のイオンからなる「猫状態」の場合,150マイクロ秒ほど持続するという。
オーストリアではインスブルック大学のブラット(Rainer Blatt)とヘフナー(Hartmut Haeffner)らが同様の技法によって, 8個のカルシウムイオンを量子もつれ状態にした。この実験では「猫状態」ではなく,「W状態」が作られた。W状態は多くの点で猫状態よりもエラーを起こしにくい。例えばW状態からイオンが1個失われても,残りのイオンは依然としてW状態を保つ。これに対し猫状態からイオンが1個でも欠けると,全体がだめになる。
どちらの実験も,原理上は多数のイオンを取り込める。しかし,イオンの数が増すにつれて量子もつれ状態の質が低下するため,実際には拡張は難しかった。このエラーを減らすには,レーザーパルスの微調整や, 0と1の表現にイオンの異なる状態を利用する,イオンの種類をそっくり入れ替えるといった対応が考えられる。
「グローバーのアルゴリズム」を実証
実用的な量子コンピューターを実現するには,量子ビットの特性を保ちつつ操作する必要もある。つまり,コンピューター上で量子アルゴリズムを実行しなくてはならない。
ミシガン大学アナーバー校のモンロー(Christopher Monroe)とブリックマン(Kathy-Anne Brickman)らのグループは「グローバーの量子検索」というアルゴリズムを2個のカドミウムイオンの系で実証した。
この検索アルゴリズムはデータベース内の項目を無作為な順にくまなく探す。ふつう,特定の項目を探すには全項目を調べる必要があるが,量子検索アルゴリズムは魔法のように速い。データベースの全項目を重ね合わせて調べられるからだ。データベースの規模が大きくなるほど,劇的に速くなる。例えば項目数が100万の場合,100万回の参照は不要で,約1,000回の量子検索ですむだろう。
ミシガン大学の実験に使われたデータベースは項目数が4項目相当で,これら4個の項目は2つの量子ビットで表現された。量子ビット数はもっと増やせるという。
こうした成果が次々と出ていることを考えると,モンローがいうように「大規模な量子コンピューターの実現を目指す手法のなかで,イオン捕捉法が他をリードしていると多くの人々が感じている」のも無理はない。
もつれたイオン トラップに捕捉された8個のカルシウムイオン。「W状態」という特殊な量子もつれ状態にあり,イオンの特性には微妙な相関がある。こうした量子もつれ状態は量子計算での誤り訂正に役立つ。粒子数が多くなると,量子もつれ状態の生成と維持は難しくなる。
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