消化器疾患の治療に“毒掃菌”〜日経サイエンス2006年12月号より
毒素を吸収する大腸菌ができた
熱帯地方に旅行する場合,食あたりや命にかかわる消化器疾患の原因になるような地元の細菌叢を摂らないように気をつけるのがふつうだ。だが,オーストラリアのある研究チームによると,有害な腸内細菌から身を守るには,もっと大量の細菌を摂取するのがベストだという。ただし,ふつうの細菌ではない。他の細菌の毒素を吸収するように遺伝子操作された良性の大腸菌だ。
アデレード大学のペイトン(James C. Paton)らは大腸菌の無害株を操作して“おとり細菌”を作った。細胞膜の表面に,人間の細胞にあるのと似た結合部位を持つ。有害な細菌が生み出した毒素を,人間の腸の内壁細胞ではなく,“おとり細菌”に結合させるアイデアだ。
安く作れて投与も簡単
最新のおとり細菌は,コレラ毒素が結合するヒト細胞受容体に似た受容体を持ち,それぞれが自重の5%の毒素を吸収する。試験管実験では,毒素によるヒト細胞の死滅を99.95%も減らせた。12匹のマウスにおとり細菌を与えてからコレラ菌に感染させたところ8匹が生き残ったのに対し,おとり細菌を与えなかった対照マウスは12匹全滅だった。また,コレラ菌に感染してから治療をせずに4時間放置しても,2/3が生き延びた。
ペイトンはもっと厄介な毒素に結合する大腸菌も作り出した。志賀毒素や,旅行者を苦しめ途上国の子どもたちにひどい下痢を起こす細菌の毒素を吸収する。こうした人工の「プロバイオティクス(有用微生物)」が病気の大流行時に安価な治療・予防法として役立つだろうとペイトンは期待している。
生の細菌にその菌の仲間を狙わせるこの方法の利点は,有益な細菌を培養法で安く作れることと,簡単に投与できることだ。補給用水分と一緒に飲めばよい。だが,最も重要なのは,毒素を抑え込むだけで病原菌そのものには影響しないため,病原菌に薬剤耐性が生じない点だ。「こんな治療法を待っていた。私自身が臨床医として,抗生物質ではない効果的な方法を待ち望んでいた」と,ハーバード大学医学部の消化器疾患専門家ラモント(J. Thomas LaMont)はいう。
糖複合体でヒト受容体に近く
この考えをペイトンと妻のエイドリエン(Adrienne)が思いついたのは,1995年にアデレードで赤痢が大流行し,エイドリエンが迅速な診断法を試していたときだった。「子どもたちを初期段階で診断できたのに,そこから先は何もしてやれなかった」とペイトンは振り返る。1週間ほど後,子どもたちは進行した溶血性尿毒症症候群の患者として再び担ぎ込まれてくる。毒素の蓄積による腎障害だ。「そこで,遺伝子組み換え大腸菌で毒素を一掃するという考えが浮かんだ」。
おとり細菌を作るにあたって,ペイトンは他の2種類の細菌の遺伝子を病原性の弱い大腸菌株に組み込み,細胞表面の受容体にキメラ分子ができるようにした。この糖複合体が加わったことで,人間の細胞にあるのと似た受容体となり,コレラ毒素分子と結合するようになる。
志賀毒素を狙った最初のおとりは完璧だった。組み換え大腸菌の表面にできたのはすべてがヒト受容体に似た分子で,それぞれの菌が自重の15%の毒素を吸収できた。コレラ毒素向けのおとり細菌は模倣受容体の数はそれほど多くないが,臨床上で大きな問題にはならないだろう。むしろ,このキメラ受容体は構造が人間のものに非常によく似ているので,自己免疫応答を引き起こすはずだ。
この点はさらに調べなくてはならないとペイトンは認める。だが,もっと心配なのは,この大腸菌が組み換え生物に対する国際的な規制に引っかかるかもしれないという点だという。この2つの問題を解決するには,この有益な細菌を殺してから投与すればよいだろうとペイトンは説明する。「死んだ状態でも作用する。効果は少し落ちるかもしれないが,死んでしまえばもはや『遺伝子組み換え生物』ではなくなる」。