Bt毒素の謎〜日経サイエンス2007年3月号より
代表的な生物殺虫剤だが,これ自体が虫を殺しているのではないようだ
ウィスコンシン大学マディソン校の大学院生ブロデリック(Nichole Broderick)はBt毒素の働きを理解しているつもりだった。バチルス・チューリンゲンシス(Bacillus thuringiensis)という細菌が生み出すこの毒素は1911年には知られ,1950年代から生物殺虫剤として使われてきた。Bt毒素を作るように遺伝子操作した穀物もいろいろある。Bt毒素によって昆虫の腸に穴が開き,昆虫の血液(血リンパ)に細菌が感染するか,昆虫が飢えるかして死ぬのだと考えられてきた。
だから,マイマイガの幼虫の腸内細菌を抗生物質で一掃してからBt毒素を与える実験をしたとき,ブロデリックは殺虫効果がさらに高まると考えていた。「腸内細菌叢がマイマイガの腸をBt毒素から守っているという仮説を検証するつもりだったのだが」と振り返る。ところが「腸内細菌叢をなくしたら,Bt毒素を与えても死ななくなってしまった」。
Bt毒素そのものに殺虫効果がないとなれば,100年の定説が覆ってしまう。ブロデリックは実験を何回か繰り返し,同大学の細菌生態学者ハンデルスマン(Jo Handelsman)と昆虫学者ラファ(Ken Raffa)に助言を求めた。しかしこの2人も,昆虫の種類を変えて何度実験しても,同じ結果しか得られなかった。Bt毒素が最もよく効くのは,マイマイガの消化管に通常の細菌群がすみついているときなのだ。
必須の腸内細菌
Bt毒素に関する過去数十年間の研究は,毒素の働きの第一段階についてだけだった。「毒素が腸に穴を開けた後に何が起きるのかについては,誰も注目しなかった」と,テネシー大学ノックスビル校のフラット=フエンテス(Juan Jurat-Fuentes)はいう。「その後,昆虫は回復するのか,それとも別の細菌が殺虫作業を引き継ぐのか?」
ウィスコンシン大学の研究グループは昆虫に腸内細菌を1種類ずつ戻して調べ,NAB3というエンテロバクター菌を戻すとBt毒素の殺虫性が回復することを発見した。また,バチルス菌は血リンパ中ではすぐに死んでしまうのに対し,NAB3は増殖することもわかった。さらに,Bt毒素を作り出すように遺伝子操作した大腸菌を幼虫に与えると同様の殺虫効果が見られたが,この大腸菌を殺してから与えると毒素が残っているにもかかわらず殺虫効果が落ちることがわかった。
これらの結果から,Bt毒素の効果のばらつきを説明できる可能性がある。例えばヤナギの葉を食べるマイマイガにはBt毒素が効かない。ヤナギに含まれるタンニンがBtタンパクに結合して無毒化しているという説があるが,ラファは幼虫を殺している真犯人はエンテロバクター菌であって,ヤナギの他の成分がこちらに影響を与えているのではないかとみている。
また,トウモロコシにつく害虫ヨトウガ(Spodoptera frugiperda)はBt毒素にさらされると腸に穴が開くものの死なない。「Bt毒素が昆虫を殺しているわけではないのだ」とフラット=フエンテスはいう。
まだまだ尽きぬ謎
バチルス菌自体にも謎がある。毒素はバチルス菌に何の利益ももたらさないのに,この菌が大量のエネルギーを費やしてまで毒素を作るのはなぜか。また,Bt毒素を作る組み換え作物が普及して約10年になり,世界で130万km2以上の農地で栽培されているのに,他の殺虫剤と違ってBt毒素に耐性を持つようになった虫はほとんどいない。「コナガという虫だけだ」とアリゾナ大学の昆虫学者タバシュニク(Bruce Tabashnik)はみる。
今回の研究からBt毒素は腸内細菌と協力して働き,おそらく敗血症を起こすことがわかったが,正確なメカニズムは不明なままだ。解明すれば,耐性を防ぐ方法や毒素の効果を高める方法につながるかもしれない。
少なくとも,害虫に関する認識は一新する。「調べれば調べるほど,昆虫を単に1つの種として考えてはいけないことがわかる」とタバシュニクはいう。「昆虫体内の共生生物群に目を向け,昆虫が周囲の環境とどう相互作用するかについて共生生物がどんな影響を与えているかを見極めねばならない」。