オンチップラボに心臓を〜日経サイエンス2007年6月号より
電池は不要,心筋細胞で駆動する微小ポンプを日本の研究チームが開発した
ごくごく微量の液体を操る小さな機械がほしい──生体工学の研究者たちが熱望してやまないアイテムだ。そうした微小流体素子はすでにインクジェットプリンターに使われているが,バイオ分野にも大きな可能性を持つ。ほんの少量の試料でも,効果的で素早い医療分析ができるだろう。その場で化学分析ができるオンチップラボ,生命維持に不可欠な臓器の機能補助,必要なときに医薬品を放出する生体埋め込み型の薬剤供給デバイスなど,いろいろな応用が考えられる。
生体に埋め込むうえでの問題は,駆動力をどうするかだ。通常の微小流体機器は大きな外部装置と電源によってアクチュエーターを駆動して,小さな流路に液体を押し出している。しかし最近,日本の研究グループが革新的な新機軸を打ち出した。ある意味で“古風な”駆動装置を使う。生きた心臓だ。
心筋細胞がシリコーン球を“拍動”
この微小ポンプを開発したのは東京大学の北森武彦(きたもり・たけひこ)教授らのチーム。ラットの心臓の筋肉細胞を培養し,直径5mmの球形の微小拍動ポンプを作り出した。駆動には電源も配線も刺激も必要ない。シンプルな装置で,シリコーン(ケイ素樹脂)でできた中空の柔らかな球の両側に太さ400μmのチューブがついている。
構造としては,ミミズが持つ単心室の心臓に似ている。このシリコーン球をラットの心筋細胞で覆った。多数の心筋細胞が同期して拍動することによって球が変形し,チューブを通じて流体が押し出される。心筋細胞は周囲の環境から栄養分を吸収,この栄養分が駆動パワーとなる。
「将来はこの種の微小システムが医学研究や病院,生物学分野で使われるだろう」と北森教授は話す。例えば「薬物送達などに使う埋め込み型の化学システムや,糖尿病患者が腕時計のベルトに組み込んで使うインスリン測定・供給装置などが考えられる」という。
培養細胞シートをかぶせて…
この微小ポンプの開発に北森教授は4年をかけた。東京女子医科大学の岡野光夫(おかの・てるお)教授との共同研究だ。岡野教授は機能障害を生じた心臓に貼り付けて拍動を助ける細胞シートを開発した。
微小ポンプの開発で重要なポイントになったのは,ラットの細胞を使って球状の構造を作ることだ。まず,ポリエステル製の皿の表面を感熱性高分子でコーティングし,この上で細胞を培養した。培養後に温度を下げると,単層の細胞シートがはがれる。この細胞シートは連続的に拍動する。
糖の丸い塊の表面にシリコーンの膜を形成し,これに細胞シートをかぶせ,シリコーンが固化したら内部の糖を水に溶かして取り除く。傷の修復や血栓形成に関与している粘着性の糖タンパク質フィブロネクチンをあらかじめシリコーンにコーティングしておくので,細胞は1時間もすればシリコーンにくっつく。その後,2本の細管を球に取り付け,エポキシ樹脂で固定する。
人体埋め込み型のチップへ
シリコーン球にくっつけた心筋細胞のうち1つが拍動すると,他の細胞も同期して拍動し始める。この理由は正確にはわかっていないが,協調的動きは実験中ずっと続いた。
研究チームはポリスチレン微粒子を混ぜた液体をポンプに通し,この粒子の動きを追跡することでポンプの動作を確認した。追跡用粒子の動きは5日間にわたってほぼ安定しており,流速がわずかに低下しただけだった。培養基を交換すると拍動ペースが変動する傾向があるので,実用にあたっては周囲の環境を一定に保つことが必要になりそうだ。
北森教授はこの微小ポンプをより強力で精巧なものに改良しようと考えている。細胞層を増やしバルブを加えることで,複数の心室を持つ魚の心臓に近いものにする考えだ。シリコーン球の形を変えることによっても,多心室型のポンプにできるだろう。「これは化学エネルギーから機械エネルギーへの変換であり,電力のないところでも利用可能だ」。北森教授はチップ上に循環系のモデルを作り上げ,血管と心臓の病気を直接に観察したいと考えている。
また将来は,数十の機能を備えたラボオンチップを人体に埋め込み,健康状態を監視するようになると予測する。こうしたチップの微小ポンプの場合,埋め込む本人の心筋細胞を使って免疫系による拒絶反応を避けることになるだろう。そんなチップを埋め込んだ人は,たくさんの心臓を持つわけだ。
もちろん,これらの“微小心臓”は本物の心臓の代わりにはならない。「生涯を通じて心臓は1つあれば十分だし,心筋はとてもタフだ」と北森教授は笑う。「私たちがこの頑丈なアクチュエーターを流体制御システムに応用した理由もそこにある」。