コドンの文字をチェックせよ〜日経サイエンス2007年7月号より
遺伝子中には同じアミノ酸を意味する「同義コドン」が存在するが
無意味とされてきたこの小さな差が実は大きな影響をもたらすようだ
外交官なら知っているように,言葉のニュアンスはコミュニケーションの成否を大きく左右することがある。これに対し,細胞のなかで交わされている“遺伝情報の言葉”ははるかに“文字通り”のものだと考えられていたので,最近の発見には当の発見者も驚いた。
米国立がん研究所(NCI)の研究グループは,本来なら何の影響も及ぼさないはずのわずかな遺伝子変異によって,その遺伝子からできるタンパク質が2種類のまったく異なる形になる例をヒトで発見した。これによって,がん患者によって抗がん剤が効いたり効かなかったりする違いを説明できるかもしれない。また,「サイレント変異」という現象に関して新たな疑問が生じてくる。
抗がん剤耐性に関する遺伝子の不思議
米国立がん研究所のキムチ=サーファティ(Chava Kimchi-Sarfaty)とゴッテスマン(Michael M. Gottesman)は,がん細胞の多剤耐性に関連するMDR1という遺伝子を調べた(遺伝子の名は多剤耐性を意味するMultiple-Drug Resistanceにちなむ)。
2人が注目したのは一塩基多型(SNP)というタイプの変異だ。一塩基多型があってもMDR1がコードするアミノ酸配列には変化がない場合もあり,その場合には最終的にできるタンパク質も同じだと考えられた。だが,実際のがん患者を調べた研究では,同じアミノ酸配列を示すこうした“同義SNP”が次々に報告され,それが抗がん剤の効きやすさ・効きにくさに影響しているとみられる例もある。「こうした研究報告が非常に多く,しかも互いに矛盾している例もあったため,調べてみることにした」とキムチ=サーファティはいう。
2人は3種類の“同義SNP”に狙いを定め,これらの変異を持つMDR1遺伝子をヒトとサルの細胞に組み込んだ。MDR1遺伝子が作り出すのは細胞膜にある「P糖タンパク質」で,このタンパク質はがん細胞から抗がん剤を外に吸い出すポンプの働きをしている。そこで研究チームは変異MDR1遺伝子を組み込んだテスト細胞に抗がん剤を加え,ポンプの働き具合を調べた。その結果,あるSNPを持つ細胞ではポンプの働きが鈍っており,それらではP糖タンパク質の形が異常になっていることを発見した。
さらに実験を進めたところ,この異常なタンパク質は細胞中で通常のP糖タンパク質よりもゆっくりと作られていることがわかった。そして,それまで微生物だけで知られていたある現象が,この背景にあるのではないかと2人はにらんだ。「これはコドンの“語法”の問題かもしれない,と思い当たった」とキムチ=サーファティは回想する。
まれな同義コドンが背景に
コドンは遺伝子に含まれる3個1組の塩基配列で,特定のアミノ酸を表す。DNAの塩基は4種類あるから,3個1組の組み合わせは43=64通りになる。64種類のコドンで20種類のアミノ酸をコードしているので,同じアミノ酸を意味するコドンがいくつかある。
こうした“同義コドン”のうちどれが実際によく使われるかは生物種によって異なり,この“語法の偏り”は細胞内のトランスファーRNA(tRNA)の相対量に反映される。それぞれのtRNA分子は遺伝子転写物に記された特定のコドンを認識し,それに対応するアミノ酸をリボソームという細胞内構造体に運んでいる(リボソームでこれらのアミノ酸がタンパク質鎖に組み立てられる)。
まれにしか使われないコドンが現れた場合,それに対応するtRNAが細胞中に少ししかないので,リボソームでのタンパク質組み立ては遅くなる。
キムチ=サーファティらはMDR1遺伝子の同義SNPがこうした低頻度のコドンを生み出していることを突き止めた。その結果,P糖タンパク質の組み立てが遅くなり,折り畳みが不適切になる。同様の問題は大腸菌や酵母などの微生物の遺伝子を組み換えてタンパク質を作らせる場合にも起こる。これらの微生物が滅多に利用しないようなコドンを含んだ遺伝子を組み込むと,適切なタンパク質ができない場合があるのだ。
一方では,タンパク質をうまく折り畳めるよう,まれなコドンを使ってタンパク質の生産を遅らせているとみられる例も見つかっている。タンパク質が最終的に取るべき正しい構造について,遺伝子配列のほかに新レベルの情報が隠されているのだろうか?いまのところはまだ不明だ。
遺伝子配列とは別レベルの新情報?
ワシントン大学(シアトル)でタンパク質の折り畳みを研究しているベーカー(David Baker)は,まれなコドンの出現は進化のなかでは単なるアクシデントとして無視されてきた可能性が高いとみる。「自然選択の対象になるほどの深い意味はないだろう」。例えばヒトのP糖タンパク質は多くのドメインを持つ大きな分子だが,「生成後すぐに折り畳まれて細胞膜に挿入される膜タンパク質の場合,生産スピードが低下すると正しく折り畳まれなくなると思われる」という。
英バース大学のハースト(Laurence D. Hurst)によると,哺乳類のゲノムを解析したところでは,進化の過程でコドン語法の偏りが選択された例はほとんど見られないものの,形跡を検出できる場合はあるという。したがって,「同義コドンはタンパク質には影響しない(サイレントである)」という仮定に基づいて遺伝子の突然変異率を推測するのは必ずしも正確ではないかもしれない。コドンの語法を考慮すると,突然変異率は変わってくるだろう。
ハーストも,同義変異は多様なメカニズムで生じる可能性があり,それらがすべて進化に対して中立だとは限らないと認め,「遺伝性疾患を理解し,治療法を考えていく際に重要になるだろう」と述べている。
現在は米食品医薬品局(FDA)に勤めるキムチ=サーファティは,同義SNPなどを考慮して組み込み遺伝子を注意深く設計することにより,より優れたタンパク質製剤を作る研究を始めた。「サイレント変異は完全に無視されてきた」が,もはや「同義変異」と「サイレント」は同義ではないと考えている。