原子核からの脱出〜日経サイエンス2007年7月号より
トンネル効果による特殊な電離過程が実際に観測された
電子が原子から離れて自由になるには,ふつう紫外線やX線領域の高エネルギー光子を吸収する必要がある。このエネルギーを得て電子は励起し,正に帯電した原子核との間に働く静電引力に打ち勝って脱出する。これが電離という過程だ。
しかし,これとは別のメカニズムによる電離が起こりうる。ドイツとオランダのチームが初めて,それを直接的に実証した。強いレーザーパルスを原子に当てると,その強力な電場によって静電結合が瞬間的に弱まり,量子力学的効果で電子が原子から抜け出す。
アト秒レーザーパルスで実験可能に
この例外的な電離は現在モスクワのレベデフ物理学研究所にいるケルディシュ(Leonid Keldysh)が1964年に理論的に予測し,現実に起こりうることも実験で裏づけられていた。しかし,現象そのものを観察できるようになったのは,持続時間わずか数百アト秒のレーザーパルスが出現してからだ(1アト秒は10-18秒)。アト秒レーザーは原子や分子の内部での電子の動きを調べるのに使われており,改良すれば化学反応過程での電子の動きなども追跡できると期待されている。
電離実験をしたのはドイツのガルヒンクにあるマックス・プランク量子光学研究所のクラウス(Ferenc Krausz)らで,Nature誌4月5日号に詳細を報告した。ネオン原子のガスを標的とし,まず250アト秒の紫外線レーザーパルスを当てて,電子を原子核から少し引き離した。これとほぼ同時に,5000アト秒の赤外線パルスを照射した。5000アト秒といえば,パルス中で電場振動がたった数回しか起こらない短さだ。
この電場が静電気力を弱め,束縛がゆるんだ電子は一種の「トンネル効果」によって外に抜け出した。粒子が薄い障壁をすり抜ける通常のトンネル効果と同様だ。紫外線パルスを照射してから赤外線パルスを当てるまでの時間間隔をごく少しずつ増やしながら調べた結果,形成されるネオンイオンの数が並行して増えることがわかった。赤外線パルスの電場が極大値に達したときにイオン生成率も増えることを示している。
電子の未知の挙動を探る新手法
ケルディシュの強電場電離理論はすでに広く認められており,今回の結果は「それほどの驚きではない」とクラウスは認める。しかし,カナダ国家研究評議会の物理学者コーカム(Paul Corkum)は「電子の挙動に関して新しい測定方法を示した」とみる。電子がエネルギーをどう交換しているのかなど,未知の過程を探る手だてになりそうだ。
一例が原子内で生じる「シェイクアップ過程」だ。原子核に近いところにいる電子が高エネルギーのX線光子を受けて弾き出されるとき,その途中でエネルギーの一部を別の電子に与え,その電子は励起して原子核から離れた軌道に移る。この場合,最初の電子による光子の吸収と,2番目の電子の再配置との間にわずかな時間差が生じるだろう。
「この遅れはわずか50アト秒ほどだと考えられるが,本当のところは誰も知らない」とクラウスはいう。重要なのは遅れの長さではなく,そもそも遅れが生じるかどうかだ。遅れが確認されれば,2番目の電子が最初の電子からエネルギーを得たこと,そしてX線光子がたまたま2個の電子を同時に励起したのではないことがはっきりする。
クラウスのチームは100アト秒の紫外線パルスを実現ずみで,この謎が解ける日も近そうだ。極短パルスレーザーの進歩につれ,他の謎に対する答えもアト秒単位とはいかずとも何年かのうちに明らかになるだろう。