SCOPE & ADVANCE

ヒトの皮膚から万能細胞〜日経サイエンス2008年2月号より

胚性幹細胞にまつわる倫理問題や入手の困難さを一気に解決
再生医療だけでなく,幹細胞や薬物の基礎研究にも

 

 ドリー誕生と同じくらいインパクトのある研究成果が日本から生まれた。京都大学再生医科学研究所の山中伸弥(やまなか・しんや)教授らのグループが,大人の皮膚由来の細胞から胚性幹細胞(ES細胞)と同等の細胞を作ることに成功したのだ。「人工誘導した多能性幹細胞(induced pluripotent stem cell)」という意味から,「iPS細胞」と命名された。身体中のあらゆる細胞に分化する多能性を持つES細胞は再生医療への応用が期待されているが,これを得るには初期胚や卵子を使うしかなく,その点が大きな障害になっていた。
 iPS細胞ならば患者本人の細胞だけから万能細胞を作ることが可能で,倫理問題だけでなく,移植した場合の拒絶反応の心配もクリアできる。また,心筋細胞のような入手が難しい細胞も大量に作れるようになるため,その患者にあった薬を選ぶといった研究がぐっと容易になる。再生医療に限らず,広く医学研究を一気に加速させる転機となる成果だ。

 

遺伝子導入で細胞の時計を戻す

 成人の細胞からES細胞を作る研究は世界で熾烈なレースとなっていた。山中教授らのこれまでの研究では大きなトピックスが2つあった。1つは,マウスの体細胞にES細胞で活発化している遺伝子を導入してiPS細胞とした研究で,2006年8月のこと。クローン技術(核移植)を使わずに,体細胞を未熟な幹細胞の状態に戻すことに初めて成功した。ただ,このときはiPS細胞が本当に多能性を持つのか疑問視する声も一部にはあった。それを吹き飛ばしたのが2007年6月のNature誌に発表した成果で,マウスのiPS細胞を受精卵に入れてから母胎に戻すと,iPS細胞が身体のさまざまな臓器・組織に分化したマウスが生まれることを示した。iPS細胞がES細胞と同じように機能することを実証したのだ。
 同じ手法が理論的にはヒトでも可能なはずで,実際,今回の成果はマウス研究のヒト版といえる。マウスのES細胞で活性化している24種類の遺伝子のうちc-Myc,KLF4など4種類が特に重要であることを突き止め,これをマウスの体細胞に導入し,ES細胞の培養条件で培養したところ,iPS細胞を得ることができた。ヒトでもこれと同じ組み合わせの4種類のヒト遺伝子を導入することで,成人の皮膚の細胞(線維芽細胞)からiPS細胞が得られた。

 

猛烈なスピードで進む研究

 山中教授の今回の成果と同時に,米国のウィスコンシン大学のチームも同様の手法でヒトの線維芽細胞からES細胞に似た細胞を得た。このチームのボスはScience誌1998年11月6日号にヒトES細胞の発見を報告したトムソン(James A. Thomson)その人だ。
 山中チームとの違いは導入遺伝子の組み合わせ。c-MycとKLF4の代わりに,NANOGとLIN28という遺伝子を使っている(他の2つは山中チームと同じ)。c-Mycはがん遺伝子として知られ,KLF4はがん抑制遺伝子p53の働きを抑える作用が報告されており,どちらも発がんにつながる危険性がある。米国チームの使ったNANOGは山中教授が見つけた遺伝子で,ES細胞の多能性を維持する働きがあると思われている。山中教授がマウスで研究していたときに,候補とした24の遺伝子の1つだ。LIN28は別の遺伝子の働きを介してc-Mycを活性化する働きがある。
 一方,山中チームの“次の手”も早かった。ヒトiPS細胞の発表から10日後には,効率は下がるもののc-Myc抜きの3つの遺伝子でマウスとヒトのiPS細胞を作ることに成功したと発表。マウスの場合,4遺伝子では37匹中6匹でがん化したが,c-Myc抜きでは100日後にもがん化は認められなかった。マウスとヒトではc-Mycの挙動に違いがあることを山中教授は指摘しており,ヒトでもまったく同じかどうかはさらなる研究が必要だが,研究の進展の速さを物語る成果だ。
 さらに12月5日にはマサチューセッツ工科大学(MIT)のグループが山中チームと同じ4遺伝子導入のiPS細胞を使って,マウスの鎌状赤血球貧血症の治療に成功している。iPS細胞の貧血症変異遺伝子を正常タイプと入れ替え,造血幹細胞に分化させてから貧血症マウスに戻したところ,症状が大いに改善した。動物実験とはいえ,実際に治療に使えることを示したことになる。

 

技術的な課題と追いつかない法整備

 薬の効果を確かめたり病気に至る経緯を探る研究であれば,ヒトiPS細胞は今すぐにも大いに役立つだろう。だが,患者に移植する再生医療を目指すなら,まだ課題はある。例えば遺伝子導入にレトロウイルスを使っている点だ。遺伝子を染色体にランダムに挿入するため,細胞本来の遺伝子を壊す危険性がある。また,導入遺伝子が細胞分裂後の子孫細胞にも受け継がれる(このあたりの問題点は遺伝子治療と同様)。アデノウイルスや化学的な手法で導入する方法が望ましいだろう。だが,それが実現できても「ようやく“ES細胞と同程度の危険性”になるにすぎない」と山中教授は語る。ES細胞は免疫欠損マウスに移植すると奇形腫を形成する。臨床応用には,がん化の問題を克服する必要がある。
 技術的な課題だけではない。理論的には1人の男性の皮膚の細胞からiPS細胞を経て精子と卵子の両方を作ることが可能だ。両者から受精卵を作ることも原理的には可能。ES細胞ではこうした研究に厳しい条件を付けたり,母胎に戻すことを禁止する指針があるが,iPS細胞に関してはまだない。12月7日に開かれた文部科学省の専門委員会では,iPS細胞に由来する受精卵などを母胎に戻すことは禁止する方向で一致したが,不妊症治療の基礎研究としてiPS細胞から精子や卵子を作ることに関してはさらに議論をすべきとするにとどまった。他国の研究チームからの激しい追い上げに,国は支援体制を表明しているが,まだ“決定・実行”はされていない。

 

 

多くの人を救うには
将来の医療への応用を考えると,患者から細胞を採取してから望みの細胞に分化させるまでに現状では最低でも3カ月はかかるので,治療の機会を逃しかねず,費用もかさむ。むしろ山中教授は,細胞バンクを提案している。多くの人から細胞を採取してiPS細胞を作り,心筋や神経細胞などに分化させた状態で保存しておく。細胞を必要とする患者が現れたら,ヒト白血球抗原(HLA)の型の合う細胞を医療機関が取り寄せて使えばよい。HLAの型合わせは,骨髄バンクのノウハウが使えそうだ。
 
ESのノウハウも必要

ヒトiPS細胞づくりには,遺伝子を導入するだけでなく,ヒトES細胞と同じ条件で培養することが必須らしい。山中チームが当初,マウスES細胞の培養条件にしたところ,ヒトの細胞でありながら一見するとマウスES細胞によく似た細胞になったという(ヒトとマウスではES細胞の形態が異なる)。この細胞には多能性はなかった。
なぜ,最初からヒトES細胞の培養条件にしなかったのか?「私たちの研究室ではヒトES細胞を扱えないので」培養のノウハウがなかったと山中教授は話す。日本でヒトES細胞の分配を受けるには文部科学大臣の承認が必要だが,これには時間がかかる。米国チームの激しい追い上げにあった山中チームは国産ではなく米国のES細胞を使わざるを得なかった。日本でヒトES細胞を分配しているのが山中教授の所属する京大再生医科学研究所だというのは,何とも皮肉な話だ。

 

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