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昔の火星は酸性雨?〜日経サイエンス2008年6月号より

火星がかつて温暖だったとしたら,それは酸性雨のおかげらしい

 

 

 火星には水の痕跡があふれている。川が大地を削ってできた深い谷,巨大な三角州,かつての海が干上がった跡など,この惑星の大部分が10億年以上にわたって水で覆われていた証拠がそろっている。
 だが,なぜ火星がそんな温和な気候だったのかは説明がついていない。現在の火星は冷たくて乾いており,かつて液体の水が存在するには大気が強力な温室効果を発揮していた必要がある。火山から噴出した温暖化ガスの二酸化炭素(CO2)がかつての火星を厚く覆っていたと考えられるが,気候モデルによるシミュレーションによると,CO2だけでは地表を氷点以上に上げられない。
 最近,火星の土壌に硫黄が広く見られることがわかり,CO2のほかに温暖化を助けた成分が存在したのだろうと考えられ始めた。二酸化硫黄(SO2)だ。
 CO2と同様,SO2も火山噴火に伴って放出され,火星もかつては噴火がしばしば起こっていた。初期の火星大気に0.01%,いや0.001%のSO2が存在するだけでも温室効果が高まり,液体の水が存続できたろうと,ハーバード大学の地球化学者シュラグ(Daniel P. Schrag)はいう。

 

亜硫酸の雨で大気中にCO2蓄積

 たいした濃度ではないと思えるかもしれないが,多くのガスはごくわずかな濃度を持続するのさえ難しい。地球の場合,SO2は大気中の酸素とすぐに反応して硫酸塩になってしまうため,長期にわたる効果を発揮することはない。しかし初期の火星大気にはほとんど酸素がなかっただろうから,SO2はずっと長く存在できたはずだ。
 「酸素がないと大違いで,大気の働きはまるで異なってくる」とシュラグ。SO2は火星の水循環に主役級の役割を演じたと考えられ,別の大きな謎も解けるという。ある種の岩石が火星に存在しないのはなぜか,という謎だ。
 かつての地球ではSO2が硫酸塩に変化したが,初期火星ではSO2が空気中の水滴と結びつき,亜硫酸の雨となって大地に降り注いだとシュラグらは考えている。その結果,大地が酸性となり,石灰岩をはじめとする炭酸塩岩石ができなくなったのだろう。
 湿度が高くCO2も豊富な地球では当然のように石灰岩ができたので,火星にも炭酸塩岩がたくさん存在すると考えられていた。地球では炭酸塩岩の形成が何百万年も続き,火山から噴出したCO2の相当量を固定したので,大気中にCO2が蓄積するのをある程度まで妨げた。しかし初期の火星ではこのCO2固定が働かず,より多くのCO2が大気中に蓄積したのだろう──こうしてSO2は温室効果をさらに後押しした可能性があるとシュラグは考える。

 

SO2分子は分解しなかったのか

 ただし,SO2が本当にそのような影響を気候に与えたのか疑問視する科学者もいる。酸素のない大気中でもSO2は非常にもろい。太陽からの紫外線によってSO2分子は簡単に分解してしまうとペンシルベニア州立大学の大気化学者カスティング(James F. Kasting)は指摘する。カスティングの初期地球気候モデル(初期の地球と火星の気候はほぼ同様のものとして扱われることが多い)によると,この光化学的分解の結果,SO2濃度はシュラグらがいう値の1/1000にしかならない。「この仮説をうまく成立させる道はいろいろあるだろうが,私を含む懐疑派を納得させるには,もっと詳細なモデルが必要だろう」。
 シュラグも詳細は不明だと認めるが,光化学的に分解されるのと見合う量のSO2が初期火星の火山から噴出していたと推定する別の研究結果を引用してみせる。また,CO2を含む濃い大気が,紫外線のうちSO2分解に最も強く働く波長を効果的に散乱するという研究事例もある。これもまた,初期火星でCO2とSO2が互いの存在を増やすように働いていたことになる。
 カスティングはSO2によって初期火星が地球のように暖かくなったことはないとする一方で,SO2濃度がある程度高く保たれて,部分的には凍結を免れ,雨が降って谷ができた可能性はあるという。
 この点に関して,シュラグはあれこれ反論はしない。「私たちの仮説は,存在したのが大きな海なのか湖が少しなのか,小さな水たまりにすぎなかったのか,そうしたことにはまるで無関係だ」という。「暖かいといっても,アマゾンの暖かさとは限らず,アイスランド程度かもしれない。それでも川が谷を作り出すには十分だ」。そして,SO2はそのほんの一部分を担っている。

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