News Scan

若い神経を取り戻す〜日経サイエンス2009年4月号より

成体の脳が若いときのように再配線されうる──弱視の研究から,その詳細がわかり始めた

 

 子どもの弱視には“海賊ルック”を──昔からの治療法だ。よく見えるほうの目を眼帯で覆って弱いほうの目を強制的に働かせ,悪化を防ぐ。ビデオゲームも有効。両目に対応する神経細胞が同期して興奮し,奥行き知覚に必要な立体視ができるように脳内で神経がつながっていく。ある臨界年齢まで弱視を治療せずに放っておくと視力障害が終生残る場合があるが,最近の研究から,5%近くの人が患っているこの疾患を臨界期が過ぎてからでも治せることが示された。
 さらに,弱視の研究から脳の可塑性についてヒントが得られ,統合失調症やてんかん,自閉症,不安症,依存症など,神経の接続ミスに関連した多様な病気の治療に役立つ可能性もある。これらの病気は「神経細胞が壊れる神経変性疾患ではない」とハーバード大学医学部のヘンシュ貴雄(理化学研究所臨界期機構研究グループディレクター)はいう。「欠陥のある回路を適切に刺激できれば,脳が正常に発達する可能性がある」。

 

臨界期を引き起こすメカニズム

  最近の発見は10年前の研究成果がもとになっている。幼少期には,適切な視力の基礎となる神経接続を大脳皮質に確立するために,両目が一緒に働かなければならない「臨界期」があるが,当時ヘンシュが率いていたチームは,この臨界期をもたらす視神経回路を発見した。「パルブアルブミン籠(かご)細胞」という細胞が放出する神経伝達物質GABAは神経細胞の活性を抑えるが,GABAや同様の振る舞いをする化合物〔例えば精神安定剤の「バリウム」(一般名ジアゼパム)など〕は臨界期を引き起こす作用もある。神経細胞の活性を抑える物質が重要な発達段階を開始させる役割も果たすというのは逆説的だ。
 ヘンシュのこの発見に加え,籠細胞の周囲の基質をなすタンパク質と糖が重要な役割を果たしていることがわかった。これらをもとに近年に一連の実験が行われ,成体の動物に臨界期を取り戻す方法が実証された。
 2006年,伊ピサ大学の神経生物学者マフェイ(Lamberto Mafei)が率いるチームは,弱視の成体ラットの視覚野にコンドロイチナーゼという酵素を注入し,細胞外基質を溶かして臨界期を取り戻した。ラットのよく見えるほうの目に目隠しをした後,視力が正常に戻るのが観察された。左右の目に対応する皮質回路が,まるで幼少時の発達段階と同じように,一緒に発火するようになった。
 より最近では,ヘンシュのチームが視覚野の発達に影響するタンパク質について昨年夏のCell誌に報告した。Otx2というこのタンパク質は胎児の頭部を発達させる役割を果たしているが,出生後に再び増えて,臨界期をスタートさせる合図となる。実際,このタンパク質は網膜から後頭部の視覚野へ移動する。視覚野は自分に成熟の準備ができたことを,目からの信号が届くのを待って知るのだろう。
 ヘンシュはこのほか,11月に開かれた米神経科学会で,ニューロンにNogo受容体ができなくなるように遺伝子操作した弱視の成体マウスに関する研究を発表した。Nogoは成長抑制タンパク質で,神経軸索を周囲から絶縁しているミエリン鞘で作られる。まだ健康な両目のうち片方のまぶたを臨界期に縫い合わせたところ,弱視になった。だが縫合を解くと,成長抑制に働くNogo受容体のないマウスは視力を自然に回復した。

 

可塑性をどこまで回復させるか

 「この研究は示唆に富む」とカリフォルニア大学バークレー校の神経科学者レヴィ(Dennis Levi)はいう。「将来は弱視を分子レベルの手法で治療可能になるだろう」。そのような将来は決して遠くない。昨年,マフェイらは抗うつ剤のプロザックによって成体ラットの視覚系の可塑性を回復できることを発見した。
 神経細胞を可塑性のある若い状態に戻すことができれば画期的な治療法に道が開けるが,脳に当初の柔軟な性質を完全に回復させるのはためらわれるだろう。30歳になってから脳をそんな状態に変えるのは最良の策とはいえない。過剰な可塑性が統合失調症などの原因かもしれないという見方もあるからだ。
 可塑性をどこまで取り戻し,環境刺激だけで弱視を治せるのか。レヴィは成人の弱視患者にビデオゲームに似た訓練を何千回も経験してもらい,視力が向上することを発見した。現在は実際のビデオゲームを使って実験している。ゲームは開発者が思いもよらなかった形で,脳を再教育できるかもしれない。

 

    誤配線がもたらす危機
     神経系を初期の柔軟な状態に戻せることを示す研究は,弱視だけでなくいろいろな疾患の治療につながる可能性がある。統合失調症は脳の重要な発達期に脳内で誤った信号が伝達されて生じるのかもしれず,その後の一生にわたって脳の可塑性が過剰になる。自閉症児は過剰興奮の神経接続が多すぎるのかもしれず,これも小児期初期に生じる神経回路誤配線の一種だ。視覚系に存在するのと似た生化学物質が,音やにおい,触覚の信号によって活性化されるのだろう。中枢神経系におけるこうした物質の濃度を上げ下げして調節すれば,さまざまな病気を治療できるかもしれない

サイト内の関連記事を読む