ねえ,スイッチ入れて〜日経サイエンス2009年7月号より
脳の電気刺激が“セックスチップ”につながる可能性は?
食欲や性欲などの基本的な欲求を生み出している脳のシステムは何なのか──それを探るのが神経科学の大きな目標の1つだ。有名な生理学者オールズ(James Olds)は1956年,SCIENTIFIC AMERICANに寄せた「脳の快楽中枢」という記事で,丸1日絶食させたラットが餌につられて台から降りる様子について述べた。快楽中枢を刺激する電気ショックを餌にたどり着く前に与えると,ラットは餌をまったく食べずに快感にひたるようになった。
こうした実験によって神経機能の理解が進んで「食欲や性欲を調節する薬などが可能になるだろう」──当時は楽観的な時代でもあったので,オールズはそう結論づけている。
50年後の現在,オールズの予想はいまだ完全には実現していない。食欲抑制剤や性欲亢進剤はまだまだ改良が必要だ。だが近年,中枢神経系を刺激するというオールズ流のより直接的な方法への関心が高まっている。
脊椎電極で「オーガスマトロン」
ウディ・アレンによる1973年のコメディ映画『スリーパー』に出てきた絶頂感発生装置オーガスマトロンのようなものを実際に作った人は,いまのところいない。だが,ある大胆な医師が「オーガスマトロン」という名称を商標登録し,脊椎に電流を流して性的不能を治療する可能性を調べる小規模な試験を米食品医薬品局(FDA)の立ち会いのもとで行った。
この医師はノースカロライナ州在住のメロイ(Stuart Meloy)で,脊椎埋め込み電極によって痛みを緩和する治療法の専門家だ。以前,ある女性を治療した際にたまたま下部脊椎の所定より少しずれた位置に電極を埋め込んでしまったのだが,その女性はこう叫んだ。「先生お願い。どうやったのか,うちの主人に教えてやって」。
メロイは2006年,オーガズムを得られなくなったか一度も絶頂感を感じた経験のない女性11人に一時的に電極を埋め込んだ結果,10人が性的興奮を経験し,うち4人がオーガズムを感じる能力を回復したと報告した。メロイは永久埋め込み装置の価格を豊胸手術なみの1万2000ドルに下げて提供できる医療機器メーカーを探している。
こうした電極によって,脊髄はついには第一次性感帯として特徴づけられるものになるのかもしれない。頭蓋奥深くの特定の位置に電極を挿入する脳深部刺激がパーキンソン病やジストニア(不随意の筋収縮によって身体の一部がねじれる)などさまざまな病気の治療に使われているが,その副作用として性的刺激を自然に生じることがときどきある。
英オックスフォード大学の神経外科医アジズ(Tipu Aziz)は,脳の快楽中枢に関する理解が進めば,それを高度な外科的技術と電気パルス制御と組み合わせて,脳に埋め込む“セックスチップ”が実現するかもしれないとみる。「性的喜びの欠如は人生の大きな損失だ。もしそれを回復できたら,生活の質が飛躍的に高まる」。
本当の喜びをもたらすもの
だが,懐疑的な神経科学者もいる。アジズと共同研究した経験を持ち「The Pleasure Center(快楽中枢)」という著書もあるオックスフォード大学のクリンゲルバック(Morten L. Kringelbach)は,快楽体験は「欲しい」という衝動と「好きだ」という衝動から成り立っているとみる。セックスチップが治療法として成功するには,両方の衝動をもたらす神経回路のスイッチを入れるという難題を解決する必要があるだろう。
クリンゲルバックはミシガン大学アナーバー校の心理学者バーリッジ(Kent Berridge)と共同で2008年にPsychopharmacology誌に発表した論文で,この2つの衝動の違いを1960年代の悪名高い実例を引用して示した。精神科医ヒース(Robert Heath)がB-19というコードネームで呼ばれる男性同性愛者の脳に,同性愛を“治療する”目的で“快楽電極”を埋め込んだ例だ。
B-19は性欲誘発電極のボタンを憑かれたように押したが,その感覚を実際に楽しんでいたかどうかは不明だ。電気刺激だけでは絶頂感は生じず,B-19はボタンを押す間に本当の満足感を表すことはなかった。
クリンゲルバックは現在の脳深部刺激にも似たような誤用がありうると警告する。「我を忘れてこの技術にのめり込まないこと。それが大切だ」という。そして,20世紀半ばに精神疾患の治療法としてはやったロボトミー(前頭葉切断術)のような「精神外科手術の繰り返しを避けることが重要だ」。
結局,セックスチップは映画の小道具には使えても,あなたの性生活に刺激を加える現実的手段には決してならないのだろう。