光を味わう〜日経サイエンス2009年12月号より
舌で“見る”視覚障害者向け装置が登場
神経科学者の故バキリタ(Paul Bach-Y-Rita)は1960年代,「私たちは脳で物を見ているのであって目で見ているのではない」と唱えた。最近,この考え方に基づいて視覚障害者の視力を部分的に回復する装置が登場した。舌の表面にある神経を使って,光の信号を脳に送る。
この装置はウィスコンシン州ミドルトンにあるワイキャブ社(バキリタが共同設立した企業)の神経科学者たちが2003年に開発し,今年末までには発売される見込み。網膜から脳の一次視覚野へ視覚信号を伝えている200万本の視神経の代わりを果たそうというもので,「ブレインポート(脳への入り口)」と名づけられている。使用者がかけるサングラスの中央に小さなデジタルビデオカメラがついており,これが視覚データを集め,携帯型の基本ユニットに送る。基本ユニットはズームなどの機能のほか中央演算装置(CPU)を備えており,CPUがビデオ信号を電気パルスに変換する。
この信号が「ロリポップ」という装置を介して舌に伝わる。ロリポップはその名の通りペロペロキャンディのような約9cm²の電極アレイで,舌にじかに接する。舌は電流を感じるにはもってこいの器官だ(唾液はすぐれた導体でもある)。さらに,舌の神経線維は密集しているうえ,他の触覚器と比べると表面近くにある。例えば指の表面は角質層という死んだ細胞の層で覆われているのに対し,舌にはこれがない。
ロリポップの各電極は一連の画素に対応している。白の画素は強い電気パルスを生じ,黒の画素は信号を出さない。この信号を舌の神経が受け取ると,本人には炭酸入りキャンディやシャンパンの泡のような感じがする。
15分で“見え始め”
失明者がブレインポートを使い始めると,だいたい15分以内に物の位置関係を判断できるようになると,視覚医療・研究の非営利組織ライトハウス・インターナショナルの研究部長サイプル(William Seiple)はいう。電極は画素と位置関係が関連づけられているので,例えばカメラが暗い通路の真ん中に明るい筋を検知すると,舌の中央に沿って電気的刺激が生じる。
「後は学習の問題。自転車の乗り方を覚えるのと同じだ」とワイキャブの神経科学者アーノルドゥッセン(Aimee Arnoldussen)はいう。「この過程は赤ん坊が見ることを学習する過程と似ている。最初は奇妙に感じるだろうが,じきに慣れてくる」。
サイプルはブレインポートの訓練を週に1回受ける4人の患者を診ている。患者たちは出入り口やエレベーターのボタンを素早く見つけたり,文字や数字を読んだり,食卓にあるカップやフォークを上手につかめるようになった。「装置の可能性に驚いた。ある人は初めて文字を“見た”ときに感極まって泣き出した」。電気的情報が脳の視覚野に送られているのか,あるいは舌からの触覚情報が解釈される体性感覚野に送られているのかは,まだわかっていない。
ピッツバーグ大学医療センターの検眼医ノー(Amy Nau)は人工視覚装置の評価基準を作るため,人工網膜や脳内埋め込みチップなど他の装置も試験する計画だ。埋め込み型装置と違ってブレインポートが非侵襲的である点に特に注目している。
ノーは「多くの失明者が視力回復を強く望んでいる」と指摘する。米国立衛生研究所(NIH)によると,40歳以上の米国人のうち少なくとも100万人が矯正視力0.1以下または視野角20度未満で,法的には失明者に分類される。成人の視力喪失による国の経済損失は年間およそ514億ドルに上る。
代替感覚技術は視覚の完全回復にはならないものの,位置関係の把握に必要な情報は確かに得られる。ワイキャブは8月末,米食品医薬品局(FDA)にブレインポートの認可を申請した。同社社長のベックマン(Robert Beckman)によると,年末までに認可される見込みだ。価格は1台1万ドル。