SCOPE & ADVANCE

遺伝する獲得形質〜日経サイエンス2010年10月号より

人間の健康と病気に大きく影響している可能性がある

 

 人間の健康と病気をDNAの個人差に基づいて理解すること──これが過去10年の遺伝学にとって最大級の目標だった。だが,身長など比較的単純な形質についてさえ,そのもとになっている遺伝子群を特定できていない。
 そこで一部の研究者は,遺伝形質を別の角度から説明する方法に注目するようになっている。エピジェネティクス(後成的遺伝)だ。遺伝子の働きを制御する分子プロセスを扱うもので,最近,エピジェネティックな変化が遺伝性の肥満やがんなどにつながっている可能性が示された。

 

NIHの「ロードマップ計画」

 エピジェネティックな遺伝子制御のうち最も詳しく調べられているのが,炭素と水素からなるメチル基(CH3-)がDNAに結合する「メチル化」という現象だ。メチル基がDNAに結合すると,DNA鎖にあるいずれかの遺伝子が無視されるようになる(どの遺伝子が働かなくなるかはメチル基がついた位置による)。
 胚の発生段階では,未分化の幹細胞にメチル基などのエピジェネティックなマークが蓄積し,これによってその幹細胞が3つの胚葉のどれに属するかが決まってくる。3種類の胚葉(外胚葉と内胚葉,中胚葉)はそれぞれ,成体になると別種の組織へと分化する。
 米国立衛生研究所(NIH)は2008年,総費用19億ドルの「ロードマップ・エピジェノミクス計画」を立ち上げた。ヒトの主な細胞種と組織に見られるエピジェネティックマークを調べ上げるのが目的だ。今年末には最初の結果がまとまる見込みで,同タイプの細胞では備わっているエピジェネティックマークも同じであると確認できそうだと,データ解析の中核機関となっているベイラー医科大学のボーデ(Arthur L. Beaudet)はいう。「自明ではなかったので,これほどきれいな結果になるとは意外なほどだ」。

 

子孫ほど太めになるマウス

 いまのところエピジェネティック効果を調べる最善の方法は「アグーチ・バイアブル・イエロー」という系統のマウスを使うものだ。このマウスでは,毛色を制御する遺伝子のなかに,ゲノム中を移動するレトロトランスポゾンという小さなDNA断片が入り込んでいる。同じ遺伝子を持つマウスでも,このレトロトランスポゾン付近についているメチル基の数によって,毛色は黄色か茶色のどちらかになる。
 こうしたメチル化マークは生殖細胞の段階でいったん消去されるのがふつうなのだが,豪シドニー大学の遺伝学者が率いるグループが1999年,毛色遺伝子のメチル化マークがメスの生殖細胞で保存されているのを発見した。DNAの変異と同様に,メチル化マークが子孫へ受け継がれていく可能性があるわけだ。
 このマウスから,人間の肥満に関する手がかりも得られそうだ。アグーチ・バイアブル・イエローは食べ過ぎによって肥満しやすい。2008年,ベイラー医科大学のウォーターランド(Robert A. Waterland)は,この形質が子孫に遺伝し,世代が進むにつれて強まって,「太った母マウスの子どもはさらに太る」ことを発見した。ウォーターランドは現在,食欲を調節している脳領域である視床下部のメチル化パターンによってこの現象を説明できるかどうか調べている。

 

「がん抑制遺伝子オフ状態」が遺伝?

 レトロトランスポゾンが別のエピジェネティック効果につながる可能性もある。オークランド小児病院研究所の遺伝学者マーチン(David Martin)は2000年代初め,レトロトランスポゾンを不活性状態に保っているサイレンシング機構によって,本来ならスイッチが入ったままであるべき遺伝子がランダムにオフになっている可能性があると提唱した。もし,これによってがん抑制遺伝子がオフになったら,がんになりやすい遺伝子変異が生じたのと同様の結果になるだろう。
 マーチンはシドニーのセント・ビンセント病院と共同で,「遺伝性非ポリポーシス結腸直腸がん」という病気の患者のなかから,異例な特徴を持つ人を2例見つけた。このがんは通常,2個のがん抑制遺伝子MLH1のうち1個が変異によって機能しなくなるために生じるのだが,この2人は変異していなかった。その代わり血液細胞と毛包細胞,口内粘膜の細胞でMLH1遺伝子がメチル化されている。そして,血液と毛包,頬の内側はそれぞれ別の胚葉からできる組織だ。
 この結果は,アグーチマウスの例と同様,2人の患者が発現を抑制された遺伝子を両親のいずれかから受け継いだことを強く示唆しているとマーチンはみる。これに対し,受精卵の段階でメチル化が生じた可能性を指摘する研究者もいるが,マーチンはエピジェネティック変異(エピミューテーション)が遺伝したと考えるのが最も明快だと考える。「誰も,これらの現象が生殖細胞のエピミューテーションでない理由を説明できないのだから」。

 

これからが本番

 エピミューテーションが起きるのなら,他の遺伝子についても同様の例が見つかるはずだ。マーチンの共同研究者でシドニーにあるビクター・チャン心臓病研究所に所属するスーター(Catherine Suter)はメラノーマ患者を対象に,このがんに関連する遺伝子にエピミューテーションが生じているかどうかを調べている。ボーデは自閉症の一部にもエピミューテーションが関与している可能性があるという。
 エピジェネティクスが健康と病気にどんな役割を演じているのか,研究はまだ始まったばかりだ。だが,米国立衛生研究所のロードマップ計画のおかげで,疾患モデルと参照試料を対比して検討できるようになる。
 「どのように研究を実行するのがよいかを真剣に検討しているところだ」とデューク大学のエピジェネティクス研究者ジャートル(Randy Jirtle)はいう。「たいへんな大仕事であり,果てはなさそうだ」。

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