真空調理法の科学〜日経サイエンス2011年3月号より
従来の加熱とは物理的に大違い
近ごろの高級レストランでミディアム・レアのステーキを頼み,出てきた肉をナイフで切ると,中心だけでなく肉の端から端まで完璧な淡紅色で,茶色いのは外側のほんの一皮だけ,という切り口が見られるかもしれない。こんな驚きの仕上がりが可能になるのは,真空調理法(sous vide,フランス語で「真空下」の意味)と呼ばれる単純だが強力な技法のおかげだ。
まず食材を多くの場合は真空容器のなかで,特別なビニール袋に入れて密封する。真空容器ではなく,空気や他の気体を入れた容器中で密封することもある。そして,この袋入りの食材を湯槽かスチームオーブンに入れ,50~65℃という比較的低温で,数時間から数日かけてゆっくりと調理する。
ステーキを1000℃近いグリルで焼いているふつうのシェフにとって,この調理法は異様かもしれない。しかし,ロブション(Joel Robuchon)やロカ(Joan Roca),ケラー(Thomas Keller)ら有名シェフによる採用もあって,真空調理法は急速に広がり,家庭にも普及し始めている 。
マイルドに熱平衡
食材を真空パックしてお湯にひたすというこの単純な作業によって,調理の物理学は想像以上に変わる。調理の目的は一般に,食材を特定の温度まで加熱して完全に“火を通す”ことだ。魚やある種の野菜など多くの食材では,加熱に許される誤差範囲は非常に狭い。しかし従来の調理法では,鍋やオーブン,グリルなどの熱が食材の外側を素早く加熱するので,食材の表面と中心部の間に大きな温度勾配ができる。
たとえば炭火焼きステーキでは,表面の直下は非常に熱くなって肉の水分が水蒸気になる。この部分はミディアム・レアの中心部よりも温度が30℃も高く,ステーキをグリルから下ろした後も熱伝導によってこの熱がステーキ内部へ浸透していく。
しかし真空調理法では対照的に,湯槽の温度をステーキ中心部の望ましい温度よりも1~2℃だけ高く設定する。コンピューター制御のヒーターによって湯槽の温度を設定値から0.5℃以内に保ち,食材は徐々に周囲と熱的平衡に達する。
高温を使わないので,加熱しすぎは実質的に起こりえず,加熱停止のタイミングは問題にならなくなる。真空パックにすることで空気による断熱効果がなくなり,安全性が高まるほか,色や香りの悪化につながる酸化反応も起こりにくくなる。低温なので焼き色はつかないが,ブロートーチであぶったり鉄板で軽く焼いたりすれば,最終的に必要な焼き色と硬さを付加できる。料理はいつもシェフの思い通りに仕上がるというわけだ。