きょうの日経サイエンス

2011年3月10日

脳の不思議を実感したこと

 人間の脳の驚くべき働きについて,日経サイエンスはたくさんの記事を載せています。別冊も多数出しています(最近ではこれ)。私自身もほんのちょっと不思議な経験がしたことがあるので,少し紹介しようと思います。いずれも記憶にまつわる話なのですが……。

 

 1つは新聞(日本経済新聞)の大阪本社で科学ニュースの取材をしていた時代のこと。とあるうららかな週末,大阪港の遊覧船に乗りに行きました。大阪港にUSJも海遊館もなかったころ,港が娯楽エリアではなく「港」であり,中央突堤にはハーバーレーダーがそびえ,港の安全を見守っていたころのお話です。中央突堤の隅のあたりだったでしょうか,古風な遊覧船乗り場があって,高い防潮壁を登って降りて小さな船に乗り込みます。港の風景は忘れてしまったのですが,記憶に残っているのは遊覧船乗り場の一画にあった売店で,懐かしさにかられ,「あたり前田のクラッカー」を買ったことでした。

 

 それから2年近くが過ぎた,とあるうららかな週末,ふとまた遊覧船に乗りたくなり,遊覧船乗り場を訪ねて,その時もまた売店をのぞき,今度は「サクマ式ドロップス」(缶入り)を見つけて買い求めました。財布からお金を出し,売店の年配の女性の方に渡そうとした時,その方が自信たっぷりに言ったのです。「あなた,以前もここで買い物したでしょう」。

 

 驚きました。売店だから毎日,たくさんの観光客が買い物をします。そうした中の,人相風体まったく特異なるところない人間から,2年近く前,一度だけ小銭を受け取ったことを,どうして覚えていられるのでしょう? 昨日会った人の顔すらすぐ忘れてしまう私にとって,それは到底信じがたいことでした。まじまじとその女性の方を見つめまいました(そして,その方の顔は,もう完全に忘れてしまいました)。

 

 もう1つは数年前の初夏,両親とともに北海道の礼文島を訪ねた時のことです。礼文島にはその10年以上前にも訪ねたことがあり,島の西海岸にあるひなびた旅館に一泊したのですが,両親が予約していた旅館は,偶然にも以前泊まった旅館でした。それでゆっくり過ごして,翌朝,タクシーを呼んで,港がある東海岸に向かおうとした時,タクシーの運転手さんが自信たっぷりに言ったのです。「あなた,以前,ここから乗ったことがあるでしょう」。

 

 これにも驚いてしまいました。なぜって,そう言われるまで,タクシーに乗ったことなど忘れていたのですから。言われて初めて,「そういえばそうだった」とおぼろげながら思い出したのです。人相風体特異なるところのない客を,10年以上前,ほんの短時間,1度乗せただけで,その客のことを記憶し続けていられるのでしょうか? 

 

 人間の脳のメカニズムは今もわかっていません。世界各国の研究者が様々なアプローチで脳の謎に挑んでいます。最新号の記事でもそうした研究の1つを紹介しています。脳のネットワークはニューヨーク株式市場の株価変動を解析した数学モデルと通ずるところがあるそうです。面白いですね。(中島)