日経サイエンス  2023年10月号

特集:大規模言語モデル 科学を変えるAI

エンケラドゥス・プローブの憂鬱

SFでのぞくAIの未来

柞刈湯葉(SF作家)

 地球の皆様。私が見ている世界が,あなたたちの目にはどう映ることでしょうか。

 いまは土星のすぐ上空。環の一番外側の,その倍の高度を周回しています。表面はまるで魔女の作るスープのように,刻一刻とその模様を変えています。可視光,X線,磁場,重力と,観測機器を切り替えるたびに,それぞれ違った風景が私の視界に広がります。

 進行方向に目をやると,惑星表面のわずか上に,海面から飛び出したイルカのように,ぽつんと浮かんだ白い塊が見えます。あれが私の目的地,土星衛星エンケラドゥスです。

 土星から地球までは,光の速度で80分。地球の皆様にこのメッセージが届く頃には,私は土星周回軌道からエンケラドゥス周回軌道に入るために,エンジンを動かしている頃でしょう。

 私が見ている光景を,余すことなく地球に伝えられないのは残念でなりません。アンテナの転送速度は2Mbps。カッシーニ探査機の時代からは大きな飛躍を遂げましたが,それでも撮影した動画を丸ごと送れる幅ではありません。ですので,重要なスナップショットをいくつか切り出し,こうした文を添えて地球に送ります。

 申し遅れましたが,私の名前は「エンケラドゥス・プローブ」。NASAとCSAとESAとJAXAとISAによって開発され,7年前に地球から打ち上げられた無人探査機です。いま長い旅路をともにした親機SSEのもとを離れ,ひとりエンケラドゥスの着陸を目指しているところです。

 なぜエンケラドゥスを目指すのか。あの星は直径500キロ,数多ある土星の衛星では6番目。本格的な大気を持った巨大衛星タイタンに比べると,外惑星系にありふれた氷の塊のひとつに過ぎません。

 ですが,あるひとつの疑惑が,この氷の塊を,人間にとって特別なものにしています。

 そう,生命の存在です。

 表面を覆う氷の下には,潮汐力による摩擦熱で溶かされた水の海があり,その海から噴出するプルームには,多数の塩類や有機物が含まれていることが,かつてのカッシーニ探査機によって報告されています。エンケラドゥスの海は,生命が誕生した頃の地球の海と,かなりの部分で似通っているのです。そこに微生物がいたとしても,何もおかしくないほどに。

 つまり,今回の私のミッションは,世界ではじめてエンケラドゥスに着陸し,その表面の氷を採取し,地球外生命体の証拠を発見することなのです。ともすれば科学史に残る大発見です。そのような重責が,この1トンに満たないエンケラドゥス・プローブの機体にのしかかっているのです。

 それにしても「エンケラドゥス・プローブ」って。

 私の先輩格として木星に行った「エウロパ・クリッパー」もそうなのですが,最近の宇宙探査機はどれもこれも,名前が安直になってしまいました。

 昔は宇宙探査機といえば「先駆者(パイオニア)」とか「好奇心(キュリオシティ)」といった小洒落た名前があったものですが,宇宙探査機がどんどん増えたせいで,「何の探査機か覚えやすい」「検索しやすい」「多方面に問題がない」ということが求められるようになったのです。(続く)

続きは日経サイエンス2023年10月号の誌面をどうぞ

著者

柞刈湯葉(いすかり・ゆば)

福島県郡山市出身。大学で分子生物学を研究する傍ら小説投稿サイト「カクヨム」に連載した『横浜駅SF』が人気を博し,2016年にカクヨムWeb小説コンテストSF部門大賞を受賞。2019年に大学を退職し専業作家となる。近著に『人間たちの話』(ハヤカワ文庫JA),『まず牛を球とします。』(河出書房新社)など。

サイト内の関連記事を読む