
ドドドドド……ド。規則正しいエンジン音が止まり,船が静かになった。浅瀬が続いて,これ以上先には進めないためだ。乗り込んでいた研究たちはここで船を下りる。荷物を海水に濡らさぬよう気をつけながら,ざぶり,ざぶり。一歩ずつ海の中を歩いて陸地へ向かう。ここはミャンマーのアンダマン海に浮かぶランピ島。研究者たちの背中のリュックに入っているのは,生物調査のための道具一式だ。
100年前,日本の植物学者たちは日本列島を北から南まで歩き回り,自生する植物を熱心に記録して回った。今,その情熱は海を越えて東南アジアに注がれている。なかでも,現在国立科学博物館が実施しているミャンマー調査は植物のみならず,動物や菌類まであらゆる生物を総合的に調査する一大プロジェクトだ。
近代以降のミャンマーは英国領の時代が終わった1948年以降軍政の影響力が強く,政情の不安定な状態が長く続いてきた。英国領時代には主に英国人の手によって部分的に植物調査が行われたこともあったが,その後自国内で植物学が発展するチャンスは巡ってこなかった。それに加えて,2000年頃までは外国から研究者が入国することが実質的に不可能な鎖国状態にあった。
その結果,現在国内にどんな植物が生えているかがほとんどわからない状態になっている。周辺国のタイやインドでフロラ(その地域の植物相)の解明が進んできたのとは対照的だ。科博ミャンマー調査のプロジェクトを率いる植物研究部の田中伸幸は「東南アジアの植物分類学において,ミャンマーは最後の空白地帯」と話す。
一方で,世界の植物多様性を理解するためにはミャンマーを避けては通れない。生えている植物の違いに基づくと世界は幾つかの「区系」に分けることができ,ミャンマーは区系の境目にあるためだ。たとえば日本列島から中国にかけては「日華区系」。南に目を向けるとタイやカンボジア,ベトナムは「インドシナ区系」。さらに西,インド一帯は「インド区系」となる。3つの区系の境界に位置するミャンマーは多様性の宝庫だ。
続きは日経サイエンス2023年7月号にて
協力:田中伸幸(たなか・のぶゆき)
国立科学博物館植物研究部で陸上植物研究グループ長を務める。専門は植物分類学。ショウガ科の分類研究を手掛けるほか,東南アジアの植物多様性に関心がある。ミャンマーの生物多様性を明らかにする国際研究プロジェクトを率いている。