
京都大学の前身となる京都帝国大学が昭和初期に創設した花山(かざん)天文台は太平洋戦争を挟む約20年に及ぶ困難な時代を経て,第3代台長に就任した宮本正太郎のもと,太陽と月・惑星の本格的な研究をスタートさせた。研究グループは大きく育ち,昭和43年には新たに京都大学飛騨天文台が開設され,さらなる飛躍を遂げた。花山天文台には,宮本から太陽観測を託された川口市郎の主導で建設され,戦後の太陽物理学発展の礎となった2代目の「太陽館」が現存し,天文学の観測実習などに使われている。(文中敬称略)
昭和20年夏の終戦直後,その2年前に京都帝国大学宇宙物理学科助教授に昇任したばかりの宮本は,戦時中に刊行され日本では読めなかった天文学の有力学術誌Astrophysical Journalを,つてを頼ってトランク一杯入手した。前出の川口は「栄養失調気味の(宮本)先生は一夏で読破され,その主要論文を,何回かの連続した雑誌会で私どもに紹介して下さった」と,日本最古の天文同好会である東亜天文学会の会誌『天界』平成4年7月号に寄稿した宮本の追悼記事で述懐している。
川口は宮本の薫陶を受け,宮本の2代後の天文台長になるが,終戦当時は宇宙物理学科の学部生だった。当時32歳だった宮本は21歳の川口らに次のように語ったという。「戦争中,本当に大きな天文学の進歩はなかった。これから我々の出番だ」。
続きは日経サイエンス2023年3月号にて