
スペインのイビサ島の南西沖にある岩だらけの無人島,エス・ベドラ島。ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』に登場する,船乗りを死に誘う海の妖精セイレーンにちなんだこの切り立った島の沖合から生まれたのは,人びとを病から救う薬だった。
製薬会社ファルママールの研究者たちは,水深36mの岩の斜面からあまりぱっとしない見た目の無脊椎動物を採取した。半透明で淡い黄色のホヤの仲間,アプリディウム・アルビカンスは,丸めて捨てられたティッシュのように見えた。1988年のことだ。
研究者たちがホヤに興味を持った理由は,樽状の体に絶えず水を吸い込み,プランクトンを濾過して食べるからだ。餌と一緒にウイルスなどの病原体も取り込むため,感染性生物を撃退する強力な化学的防御が必要だ。つまり,医薬品の原料として有望な物質を作り出している可能性がある。
1990年にファルママールは,このホヤの試料からがんにもウイルスにも効果のある化合物を単離した。30年近くの研究と試験を経て,2018年にはオーストラリアががんの一種である多発性骨髄腫の治療薬としてプリチデプシンを承認した。プリチデプシンは現在,COVIDの治療薬としても有望視され,最終段階の第3相臨床試験が実施されている。
ホヤだけでなく,サンゴやウミウシ,海洋性ワーム(ゴカイなど),そして軟体動物からも有望な化合物が得られている。コーネル大学の海洋生態学者ハーベル(Drew Harvell)は「これらの無脊椎動物は過去6億年間,まるで実験室のシャーレ内のような微生物スープの中で生きてきた」ので頑強な防御が必要だったと説明する。なにしろ,平均的な海水1リットルには,約10億個の細菌と100億個のウイルスが含まれているのだ。
再録:別冊日経サイエンス261『生命輝く海 ダイナミックな生物の世界』
再録:別冊日経サイエンス256『生命科学の最前線 分子医学で病気を制す』
著者
Stephanie Stone
受賞歴のある科学ジャーナリストで動画制作者。生物多様性,持続可能性,人間の健康を専門とする。バイオグラフィック(bioGraphic)誌の共同設立者でもある。
関連記事
「温暖化に強いサンゴを作る」,R. オルブライト,日経サイエンス2018年8月号。
原題名
Healing Waters(SCIENTIFIC AMERICAN August 2022)