日経サイエンス  2022年6月号

トランスジェンダーの⼈々を守った最初の医師

B. スキラーチェ(Medical Humanities誌)

20世紀間近のある日の夜更けに,若き医師ヒルシュフェルト(Magnus Hirschfeld)は診療所の玄関先に1人の兵士がいるのに気づいた。取り乱した様子のこの兵士は,自分はウルニング(男子同性愛者)なのだと告白した。夜の闇に紛れて訪ねてきたのも無理からぬ話で,そうしたことを口にするのは危険だった。ドイツの悪名高い刑法「175条」は同性愛を違法としていた。告発されれば地位も身分も剥奪され,投獄されるだろう。。

ヒルシュフェルトは兵士の苦境を理解した。彼自身が同性愛者で,ユダヤ人でもあったからだ。彼は精一杯,患者をなだめた。だが兵士の心はすでに決まっていた。明くる日に予定された自分の結婚式を彼は受け入れられなかった。ほどなくして彼は銃で命を断った。

兵士はヒルシュフェルトに手記を遺していた。添えてあった手紙にはこうあった。「あなたの働きでいつか祖国ドイツが私たちをもっと公正に見てくれる日が来るかもしれないと考えることが,私の死の慰めとなります」。この兵士の無用な死をヒルシュフェルトは生涯悔やみ続けた。兵士は自分のことを死ぬしかない「呪われた存在」であると語っていた。異性愛の社会規範を結婚と刑法で強いられ,彼のような者の居場所はなかったからだ。

ヒルシュフェルトは著書「The Sexual History of the World War」でこの痛ましい物語についてこう述べている。「これはドイツにおける悲劇そのものだ。彼らにとって祖国ドイツはいかなる国だったのか,そして彼らはいかなる自由を得ようと戦っていたのか?」 兵士が孤独な死を遂げてからまもなく,ヒルシュフェルトは診療所を去り,クィア(性的少数者)の歴史を変える正義の活動を開始した。

再録:別冊日経サイエンス260『新版 性とジェンダー』

著者

Brandy Schillace

BMJ誌のグループ誌であるMedical Humanities誌の編集長。最近の著書に人間の魂の移植を試みた医師ホワイト(Robert White)の伝記「Mr. Humble and Doctor Butcher」がある。

関連記事
ホルモン量で男女を線引きすべきか? アスリートの性とジェンダー」,G. ハッキンズ,日経サイエンス2022年2月号。
性はXとYだけでは決まらない」,A. モンタニェス,日経サイエンス2017年12月号。

原題名

The World’s First Trans Clinic(SCIENTIFIC AMERICAN 2021 August)

サイト内の関連記事を読む

キーワードをGoogleで検索する

マグヌス・ヒルシュフェルト性科学研究所トランスジェンダーナチス中間性トランスベスタイトリリーのすべて