日経サイエンス  2022年6月号

特集:コロナで世界はどう変わったか

なおも消えないウイルス起源の陰謀論

S. ルワンドウスキー(英ブリストル大学) P. ジェイコブス(NASAゴダード宇宙飛行センター) S. ニール(英ロンドン大学キングス・カレッジ)

科学の知見が人々の自己コントロール感を脅かすと,遠からず陰謀論が湧いて出るのが常だ。新たなウイルスの出現も例外ではなく,その起源に関する陰謀論を必ず伴ってきた。そうした主張は,はったりを利かす政治関係者によって利用され,誇張されることが多い。ときには彼ら自らが陰謀論を作り出すことさえある。

1980年代には,ソ連国家保安委員会(KGB)がエイズに関する大規模な偽情報キャンペーンを仕掛け,米中央情報局(CIA)が生物兵器研究の一環としてヒト免疫不全ウイルスHIVを作ったのだと主張した。2016年と2017年にジカウイルスが広がった際には,これが生物兵器として設計されたとする主張がソーシャルメディアにあふれかえった。

新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)を調べていたウイルス学者のほとんどは当初から,ゲノム解析の証拠に基づき,この病原体が野生動物に由来すると考えていた。コウモリからおそらく中間宿主を介して人間へ飛び移った人獣共通感染症だ。だが,パンデミックの大混乱がかき立てた不安を考えれば,このウイルスが陰謀論的思考を刺激したのは驚くにあたらない。そうした陰謀論の一部(COVIDの原因はウイルスではなく5Gブロードバンドである,このパンデミックはでっち上げであるなど)は,あまりに馬鹿げているためすぐに退けられた。

だが,なかには一見もっともらしいものもあった。SARS-CoV-2が中国の武漢ウイルス研究所で作られたとする憶測の場合,この研究所の立地が疑いを助長した。同研究所は,最初期に多くのCOVID症例が見つかった華南海鮮卸売市場と揚子江を隔てた真向かいにある。

いわゆる研究所流出説が高まったことから,バイデン大統領(Joe Biden)は政府の諜報機関に調査を命じた。2021年10月に機密解除された報告書最新版はいくつかの通俗的な研究所起源説(このウイルスは生物兵器である,中国政府はパンデミック以前からこのウイルスについて知っていたなど)を否定したものの,起源の問題は決着できなかった。 

これは,研究所流出説がいう陰謀が本物であって,調査を続ければ暴かれるということなのか? それとも,研究所流出説のもとになっているのは,存在感を強める中国に対する不安に刺激された陰謀論や,バイオ技術への以前からの敵意とバイオセキュリティーに関する懸念なのか? そして,過去2年間の状況の何が,真相をこんなにもわかりにくくしたのか?



続き日経サイエンス2022年6月号にて

著者

Stephan Lewandowsky / Peter Jacobs / Stuart Neil

ルワンドウスキーは英ブリストル大学の認知科学の教授。偽情報と,人々の科学に対する意識を研究している。ジェイコブスは気候科学者で,NASAゴダード宇宙飛行センター広報室の戦略的科学アドバイザー。この記事に述べられた見解は彼自身のものであり,NASAや米国政府の見解を代表するものでは必ずしもない。ニールは英ロンドン大学キングス・カレッジのウイルス学の教授で感染症学科長。彼の研究チームはSARS-CoV-2を含む病原性ウイルスとヒトの免疫系の相互作用を研究している。

原題名

Conspiracy Theories Made It Harder for Scientists to Seek the Truth(SCIENTIFIC AMERICAN March 2022)

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