実験の準備を終え,間瀬真知香(ませ・まちか)はルイボスティーを淹れて一息ついた。新しく借りた部屋はまだ物が少なく,お茶を飲む音が響く。そろそろアシスタントの子が来るはずだ。真知香は気を引き締めた。ノックの音がした。
「おはようございます。アシスタントの何戸家夏太(なんとか・なつた)です」
「おはようございます。間瀬真知香です。今日は来てくれてどうもありがとう」
真知香は夏太を招き入れた。そして,自分はフリーの実験数楽者で,各地で「数楽実験室」という移動教室を開いていること,これから科学雑誌で毎月連載をすることになったので,そのための実験室を開き,数学の話題をひとつずつ取り上げていきたいと思っていることを説明した。
「わかりました。ぼくは数学はちょっとアレですが,実験は好きです。どうぞよろしくお願いします」と夏太は言った。 「ところで,マテーマティケーって何ですか」
真知香は微笑んだ。
「夏太くん,数学を英語で何というか知っていますか」
「マセマティックスです」
「マセマティックスの語源を探ると『マンタネイン=学ぶ』という意味の昔のギリシャ語に行き着きます。そこから派生してマテーマティケーという言葉が生まれ,現在のマセマティックスという言葉になりました。数学者は英語ではマセマティシャンといいますが,これはもともとマテーマティコス,数学が好きな人という意味です。つまり『学ぶことが好きな人』ですね。だから勉強が楽しい人はみんな数学者」
「だから『数楽』なのですね。じゃあ音楽と一緒だ」
「そうですね。それに『実際に試して考える』という意味の『実験』を加えて数楽実験室です。数楽実験室の目的は,日常の暮らしの中で,ほんのちょっと見方や考え方を変えるだけで楽しくなるような話を一緒に体感することです。普段見ている風景が少し違って見えたら楽しいでしょう?」
「はい。今日の『斜めに見る』というのは何でしょうか?」
「早速来ましたね。では,本題に入りましょう。外に出て散歩しながら話しましょうか」
◎斜めに見る
2人は外に出て歩道を歩いている。
「夏太くん,身の回りにあって,三角形,長方形,平行四辺形,台形,円などの形をしているものは何がありますか」
「窓ガラスは長方形,信号機の青・赤・黄色は円,道路の白線は細長い長方形ですね」
「ほかには?」
「タイヤは円,車のフロントガラスは曲がった台形」
「そうですね。あとドアノブ,時計,マンホールの蓋,自販機のお金の投入口なんかも全部円ですよね」
「そうか。そうするとペットボトルのキャップ,靴紐を通す穴,服のボタン,スマホのイヤホン差し込み口も円です」
「いろいろありますね。ところで,道路標識の円と夏太くんが着ている服のボタンの円は同じ円でしょうか」
夏太は顎に手を当てた。
「そういう質問をするということは……大きさが違う,というだけじゃなくて……見え方の問題でしょうか」
真知香が頷くと
「だったら……道路標識の円は少し潰れて見えます」
と,慎重に言葉を選びながら夏太は答えた。
「正解です。円は斜めから見ると潰れた円になります。それを楕円といいます。楕円は知っていますか?」
「はい。知ってます。まだ習っていないですけど,漢字がややこしかったような……」
真知香は足を止め,ポケットのメモ帳を取り出して
○ 楕円 × 惰円,堕円
と書いた。
「漢字はちょっと難しいですね。『だ』の字はよく間違えられます。確かに,惰円と書くと,だらけて潰れた円という気分が出るし,堕円だとますますそんな雰囲気になるけど,ちょっと違う。いやだいぶ違う」
「──覚えておきます」
2人は顔を見合わせて笑った。
◎筒と楕円 話しているうちに,2人は元の建物に戻ってきた。 |
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「楕円……でしょうか」 「そう,楕円です。散歩で見てきたように,私たちはたくさんの円に囲まれています。でも実はそのほとんどを斜めから見ているから,たくさんの楕円に囲まれているといってもよいのかもしれません。そのコップをちょっと傾けてもらえますか?」 |
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「こんな感じでしょうか?」 「はい。ちょうどいいです。上から見ると,楕円に見えませんか」 |
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「見えます,見えます。つまり円柱を斜めに切ると,切り口が楕円ということですね!」 「はい。あ,もう飲んでください。私も飲みますね」 一息ついて,真知香は続けた。 |
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「まとめると,円を斜めから見ても楕円だし,円柱を斜めに切った切り口も楕円。剣の達人が真剣で竹を切ると,竹が円柱だったら切り口が楕円になります」 | ![]() |
「わかってきました。逆に楕円を斜めに見たら?」 「うまくいけば円に戻ります。面白い例があるんですよ」 真知香はパソコンでGoogle Earthを立ち上げた。 |
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「この性質を利用した有名な名所が香川県にあります。銭形砂絵といって,これは空から撮った写真です。斜めから見ると昔のお金,寛永通宝になります。ちょうどよい位置に展望台があって,そこから見ると円形になるそうです」 |
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◎楕円の潰れ方 真知香は夏太に新たな図を見せた。 「楕円は円が潰れたものですが,どのように潰れるのかを計算してみましょう。まず,円を円と認識できるのは,正面から見ている場合です」 「はい。OKです」 「円柱を斜めに切ったら楕円になりますが,楕円を楕円と認識できるのは,やはり切り口の正面から見ている場合です」 「ですが,その楕円の切り口を別の角度から見たら,円に見えます」 |
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真知香は夏太の様子を見た。夏太は考えながら,
「つまり……,銭形砂絵がなぜ円に見えるかというと,切り口の楕円が銭形砂絵で,展望台から見るというのは円柱の真上から見ることに相当するんですね」
「パーフェクト! 銭形砂絵は縦長の楕円で,それをうまい角度から見ると,円になるわけです」
真知香は,楕円の寛永通宝の中に緑の円を描いた。 「ここで,楕円の寛永通宝の中に,緑色の円が描いてあったとします。楕円の寛永通宝が円に見えるとき,この緑色の円は,何に見えるでしょうか?」 「円は……潰れます。そうか。楕円になるのですね」 「はい。縦長の楕円が縦に潰れて円に見えるのと同じ割合で円も縦に潰れるので,縦の幅が短い楕円になります。だから,円は斜めに見ると楕円に見えるのです」 |
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「いまから,その潰れ方の割合を考えてみましょう。夏太君は,三角比は習いましたか?」 |
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真知香は右の図を見せた。
「円を真上から,つまり角度θ=0°から見たときは楕円の縦幅はcos0°= 1倍で,元のままです。θ=22.5°から見たらcos22.5°= 0.924倍になります。同様にθ=45°なら 0.707倍,θ=67.5°なら0.383倍,真横,つまりθ=90°から見たときは 0倍に縦の長さが潰れるわけです」
「わかりました」
「次に,見え方と遠近の関係を考えてみましょう。銭形砂絵は縦122m,横90mの巨大な砂絵ですが,展望台から見たら小さく見えてカメラに収まるはずです。遠くのものは小さく見えますよね。そこで,目を頂点とし,対象物方向に広がる円錐状の視野を考えます」 |
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「円錐を斜めに切ると,切り口は楕円になります」
「何か不思議です。下の方が広がっているように思えます」
「そうなのです。卵みたいに一方が尖った形になるんじゃないかと考えたくなりますよね。でも楕円になるのです。紀元前にアポロニウスという哲学者が証明しました。今までの話と同様に,切り口の楕円の縦軸は斜めの角度θに対するcosθ倍に縮まります。さらに,対象物までの距離に反比例した倍率を掛けた分だけ,対象物は小さくなります」
「なるほど。よくわかりました」
◎焦げる点 「楕円を円を斜めから見たもの,というのではなく,別の説明の仕方をすると,『ある2点からの距離の和が一定の点をつないだ曲線』です。この説明通りに楕円を描くのは,糸とセロハンテープが2枚あれば簡単にできます。糸を異なる2点(FとF')にテープで固定しておいて,鉛筆(点P)で糸をピンと引っ張りながら曲線を描いていきます」 |
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夏太は慎重に鉛筆を進める。 「できました!」 「いい形です! FとF'を近づけてみるとどうなりますか」 |
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「さっきよりも円に近く見えます」
「究極に近づけたら,コンパスで円を描くみたいになるはずですね。2つの焦点を近づけていくと,楕円はどんどん円に近づきます」
「そんな気がします。鉛筆の点Pというのは,鉛筆(ペンシル)のPですか」
「いえ,点(ポイント)のPです。2つの点FとF'は,フォーカスのFです。カメラのフォーカスと同じですね。漢字では焦げる点,焦点と書きます」
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「2つの焦点FとF'をマークしておきましょう。夏太くん,焦点Fからレーザーポインターの光を楕円鏡に照射してください」 そう言いながら,真知香は線香に火をつけた。煙が漂い,レーザー光の軌跡がぼうっと光る。 「光が反射されますね。あっ,反射光がもう1つの焦点F'を通ります」 |
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「焦点Fから楕円鏡に照射するレーザーポインターの向きをいろいろと変えてみてください」
「おぉ! どんな角度で照射しても,反射した光は必ず焦点F'に行き着きますね」
「そうですね。一方のFから照射されたレーザー光は,楕円鏡で反射されると,必ずもう一方のF'を通ります。だから焦げる点,焦点というんですよ」
「そういう意味だったんですね」
◎楕円軌道とグラスの傾き
「楕円と焦点の話は,私たちが住んでいる地球と太陽の関係にも深く関わっています。太陽系の惑星は知っていますか」
「水・金・地・火・木・土・天・海」
「そうそう,以前は最後に冥王星の冥がついていましたが,惑星の定義が変わって,冥王星は惑星から外れました」
「この8つの惑星は,太陽の周りを回っていますが,その軌道が楕円なのです。そして焦点の1つの位置に太陽があります。地球も自ら自転しながら,焦点Fにある太陽の周りを,宇宙に楕円を描きながら1年かけて回っています」
「自転しながら公転しているんですね」
「はい,そうです。地球は実際にどんな楕円を描いているのか,実感できる方法があるんです
そう言って,真知香はグラスと1円玉を取り出した。 「グラスにさっきのルイボスティーを入れて,グラスの下の端に1円玉を挟みます。そうすると少し傾きますね」 「はい。上から見ると楕円になります」 夏太はすかさず答えた。 「ただ傾きが小さいので,見た目にはほとんど円と区別がつかないです」「そうですね。円か楕円かの違いを測る離心率という指標があります。離心率が0だと円,離心率が1に近づくとどんどん潰れた楕円になります。この場合,グラスの口径を8cm,1円玉の厚さを1.5mmとすると,グラスは約1°傾いていることがわかります」 |
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夏太は顔を真横に傾けて,1°の傾きを確認した。 「そこから離心率を計算すると,0.0187という数値が得られます。これくらいだと,人の目には円にしか見えません」 真知香はさきほど使った太陽系の図を夏太に見せた。 「地球の描く楕円の離心率は0.0167だとわかっています。つまり,このルイボスティーの表面が描く楕円と同じくらいだといえます」 |
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「ではほとんど円なのですね」
「そうです。だから17世紀初めにケプラーが発見するまで,惑星は太陽の周りを円運動していると信じられていたのも無理はありません。ただ,ルイボスティーの楕円は短い径が8cm,長い径が8.001cmでほぼ差がありませんが,宇宙ではたった1°のずれでも何万kmものずれになります。例えば,月の出ている夜に,5円玉をもって腕を伸ばして,5円玉の穴の中に月を入れてみてください。 38万km彼方の月が穴の中にすっぽり入ります」
真知香は5円玉を夏太に渡した。夏太は腕を伸ばして5円玉の穴から天井を覗いている。
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「伸ばした腕の長さを55cmとすると,5円玉の穴の径は5mmなので,視野角は大体0.5°です。つまり0.5°のずれは55cm離れたところではたった5mm程度の差ですが, 38万km彼方では3500kmの差になって,それはおよそ月の直径に相当するのです」
「だから1°のずれは大きいのですね」
夏太は納得するように頷いた。
「はい。地球が太陽に最も近くなる近日点距離と,逆に最も遠くなる遠日点距離から地球の描く楕円の形を計算すると,短径は2億9916万km,長径は2億9920万kmとなることがわかります。その差は4万kmです。あまりピンときませんが,この距離は大体地球の子午線の長さです」
ちょうどお昼のチャイムが遠くに聞こえてきた。
「そろそろお腹も減ってきたし,今日の数楽実験室を閉店しましょう。お疲れさまでした」
「ありがとうございました。楽しかったです。次回もまた来ていいですか?」
「もちろん!」
数学では円や正方形などをあつかうけれど,実際の世界ではそれらを真正面から見ることよりも,斜めに見ることの方が圧倒的に多い。そういった意味では,存外誰もが「斜に構えて」世の中を見ている,ともいえる。たまに正しく見えたと思っても,実は楕円をちょうどよい角度から斜めに見た円を正円と勘違いしているだけかもしれない。こうなると,斜に構えているのが自分だか世の中だか,どちらなのかわからなくなる……。
思ったよりも深い論考になりそうだ。真知香はそう考えながら片付けを始めた。
著者
矢崎成俊(やざき・しげとし)
明治大学理工学部数学科教授。2000年東京大学大学院博士課程修了。博士(数理科学)。手を動かすことで数学の概念を実感する「実験数学」の活動で知られる。著書に『実験数学読本』シリーズ①〜③(日本評論社)などがある。